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平成28年度連携講座 : 平成28年度 第13回連携講座
投稿者 : 事務局 投稿日時: 2017-11-17 15:15:30 (130 ヒット)

平成28年度 静岡大学岳陵会 連携講座 第13

 

 

日 時  2017116日(月)1425分~1550

会 場  静岡大学 人文社会科学部 大講義室

受講生  180

講 師  大石 守方   

(文理7回 昭和34年 地学卒)

 

演 題  「 学校、寮、同窓会と私の80年のあゆみ 」 

  

只今ご紹介いただきました大石です。私は文理学部の卒業でございます。生まれは昭和11年(1936年)、今年81歳を迎えます。皆さんとは60歳ぐらいの年の差があると思いますから、皆さんのお爺さんぐらいの年齢ということです。私が静岡大学との関わりを持ったのは中学生の時です。昭和27年に中学校でありながら静岡大学の名前をもった静岡大学教育学部付属浜松中学校に入学しました。その後、静岡県立浜松北高校を経て、昭和30年に静岡大学文理学部へ入学しました。静岡大学では地学を専攻し、昭和34年に卒業しました。同年、北海道大学の理学部大学院修士課程へ入り、地質学鉱物学を専攻し、昭和37年に卒業、その後は故郷浜松市の松井溶接工場(のちの松井工業(株))へ就職し、平成13年、65歳で同社を定年退職しました。そして今日まで畑仕事をしながら、たまにはゴルフや旅行等を楽しみながら気ままに過ごしています。

 

今日はこれまでとは少し毛色の違った話をさせていただきます。はじめに、皆さんが現在所属しているのは静岡大学人文社会科学部ですが、この人文社会科学部が今日の姿になるまでに非常に長い年月をかけているわけです。日本の近代的な学制というものは明治5年の学制公布によって誕生したと思います。そして、明治8年に静岡に静岡師範学校が開校されました。これが静岡大学教育学部および静岡大学の前身となるわけです。明治27年に高等学校令が施行され、一高や二高などいわゆるナンバー高校と言われた高等学校が誕生しています。そして、大正12年に22番目の高等学校として静岡高等学校が開校されました。これが静岡大学文理学部の前身となる学校です。また、同年に浜松に浜松高等工業専門学校、現在の静岡大学工学部の前身となる学校も開校されております。当時の高等学校は3年制でしたので、第1回の卒業生が大正15年に卒業しております。当初は2学期制をとっておりましたが、昭和10年に3学期制に変更されております。戦時中の昭和20年6月には静岡大空襲により一部の教室が焼失し、その年の8月15日に終戦を迎えたわけでございます。翌9月には閉鎖されていた学校も授業を再開しております。戦後、昭和22年に学校教育法が施行され、いわゆる六・三・三制の義務教育が開始となりました。昭和23年の一府県一大学制によってこの地にも静岡大学案が浮上し、翌昭和24年に静岡大学が開校されたわけです。この年には旧制静高に最後の学生が入学しておりまして、この時初めて女子が2名入学しております。現在では理系女子学生を「リケジョ」とか呼ぶようですが、当時は「理メチ」、「文メチ」と呼ばれていたようです。静岡大学は静岡高等学校を前身とした文理学部と浜松高等工業専門学校を前身とした工学部、それから県内の師範学校を集めて作られた教育学部の3学部で発足しています。文理学部の名前の由来は英語の「liberal arts」を直訳したものとされていますが、最近ではこの言葉を「基礎教養」と訳されているようです。当時、文理学部の定員は200名でした。そのうち文科が100名、理科が40名、2年間教養を学んだ後に他大学の医学部へ進学する医学部進学コースが20名、同様に浜松の工学部へ進学する工学部進学コースが40名となっていました。その後、昭和26年に静岡県立農科大学が農学部として加わり、ここで初めて4学部がそろったわけです。昭和29年には医学部進学コースが廃止され、文理学部の構成は、人文100名、理科60名、工学部進学コース40名となりました。その当時の授業料は年間6,000円でその後9,000円に値上げされております。昭和34年には工学部進学コースが廃止され、定員が人文90名、理科60名となっております。ただし、その後の昭和35年から昭和41年まで臨時的に工学部生100名を1年間受け入れしています。昭和37年から38年にかけて文教審による文理学部廃止構想が浮上し、昭和40年には静岡大学においても文理学部を廃止し、人文学部(人文学科、法経学科)、理学部(数学、化学、物理、生物の4学科)、教養学部を新設することになります。なお、私が在籍していた地学科は廃止され、自由選択科目の一つとして地学履修コースが設定され、昭和50年にこの地学履修コースは地球科学科となっています。昭和42年には教養学部校舎が完成し、こちらへ移転しております。また、同年に片山寮も完成し、他の寮から教養学部1・2年生の一部が移転しています。昭和47年には文理学部の最後の学生が卒業しています。昭和48年に旧制静高50周年記念、翌昭和49年には浜松医大が開校されております。昭和53年に人文学部法経学科は法学科と経済学科に分かれ、昭和57年には社会学科が増設されています。昭和60年に大学跡地に城北公園が完成し、その後、社会学科、人文学科が社会学科と言語文化学科になっています。平成4年には旧制静高の70周年記念大会が開催されています。平成7年には教養学部が廃止となり、翌平成8年に工学部に情報学部が新設され、同時に工業短大、法経短大が廃止されています。また、理学部地球科学科と生物学科を合わせて生物地球環境科学科という名前の学科になっています。そして、平成11年、静岡大学の創立50周年にあたり、記念式典、祝賀会、講演会、シンポジウムが開催され、静岡大学の50年通史、写真集が刊行されております。前列の机に当時の資料を用意しておりますので興味のある方はご覧になってください。平成15年には国立大学法施行に伴い、翌平成16年に静岡大学国立大学法人となっております。そして、平成24年に人文学部が人文社会科学部になり、現在に至っております。今、皆さんが在籍している学部はこのような長い歩みの末に出来たものです。

 

つぎに当時の学生寮の話をしたいと思います。静岡高等学校時代から文理学部がこちらに移転し、無くなるまで仰秀寮という寮がありました。この寮は私にとっては非常に思い出深く、そこで過ごした4年間はまたとない経験であったと思います。大正12年に学校が出来た時にはまだ寮は完成しておりませんでしたが、当時の1期生が寮歌「地のさざめごと」と「弥生の東雲」を既に作っておりました。今では考えられないことだったと思います。翌大正13年に5棟からなる寮が開寮し、1年生と2年生が入寮しています。そして、大正14年には寮のそれぞれの棟ごとに寮名と寮色を決めています。北から不二寮(白色)、穆寮(茶色)、映寮(緑色)、魁寮(黒色)、悟寮(赤色)と定めています。昭和6年頃の食費は1日45銭だったものが、その後時代を反映し、40銭、35銭へと値下げされているようです。そして昭和11年、私が生まれた年ですが、寮名を仰秀寮と決定しています。それまでは寮名を静高自治寮と名乗っていたようです。昭和12年当時の寮費は月1.1円から1.2円、経常費が月2.5円から2.8円とされていますが、これは食費別のようです。そして昭和14年には寮旗が制定されております。そして昭和17年には中島屋旅館の一部を借用し、6番目の寮「真寮」を新設しております。これは1年生200名が全寮制となったことにより、行き場を失った2、3年生のための寮として臨時的に設けられたようです。昭和18年、戦争が激化してくると、自治寮が解散となり、不二寮を第一寮へ改名しています。昭和20年の静岡大空襲により悟寮が消失し、六寮(真寮)も事情により返還することになり、その後8月の終戦を迎えたわけです。翌9月には寮も授業も再開され、12月には旧の寮名を復活しております。その年の12月から翌年1月末まで休暇のために閉寮されております。終戦の年から魁寮の1階10室に教官家族5世帯が入居したため、寮の定員が4寮で140名となり、一時3人部屋となったこともありました。昭和24年に新制静岡大学が開校され、1回生70余名が入寮しております。昭和25年には戦時中に焼失した悟寮が再建されましたが、一時、教官の研究室と使用されていたため、寮としては使用できませんでした。そのため、昭和27年に食堂の北側に新しい悟寮を建設しています。ただし、当時は資材不足で不良資材を使ったためにあまり頑丈ではなく、いわゆる「ストーム」は禁止されました。そして昭和42年に片山寮が完成しています。片山寮は男子定員が288名、女子定員が228名で静大生全員を対象とした寮でした。仰秀寮からは教養部の学生約90名が移りました。昭和44年には仰秀寮生全員が片山寮そして第二新寮へ移転し、無人となった大岩は廃寮となりました。第二新寮は雄萠寮と称し、男子定員276名でやはり全静大生を対象とした寮として使われております。昭和45年には寮全体が解体され、昭和60年に跡地に城北公園が完成しております。そして平成3年には旧制静高同窓会と共同で寮の跡地に歌碑(地のさざめごと)を建て、いろいろな行事が催されました。ここまでが仰秀寮の歩みになります。なお、人文棟1階の玄関入口に旧制静高の模型が展示してあり、先程の仰秀寮もありますので、ぜひご覧いただきたいと思います。

 

つぎに同窓会の話をしたいと思います。同窓会がどのような活動をしてきたかと申しますと、旧制静岡高等学校の同窓会は、大正15年に卒業した第1期生によって組織されました。そして平成25年に設立90年を機に全員高齢を理由に解散されています。静岡大学文理学部の同窓会も同様に昭和28年卒業の第1期生によって組織されました。昭和37年には第10回卒業生を含む名簿を初めて発行しています。翌昭和38年からは同窓会会報も発行されるようになり、昭和43年に初めて文理学部生全員の名簿を発行しております。これは文理学部が人文学部と理学部への改組があったことをきっかけとして文理学部の卒業生全員を対象として名簿を作成したものです。学部の改組により同窓会の名前も静岡大学文理・人文学部同窓会へ変更しました。また、理学部は独自に同窓会を創設しましたが、文理学部の理科生はそのまま文理・人文学部同窓会に残っています。そして文理・人文学部の初めての同窓会が昭和47年に開催されています。昭和54年、それまで経費等の関係で卒業生全員へ総会案内を出すことができませんでしたが、この年初めて全員へ通知しました。また、昭和55年には全員へ会報も送付しております。そして旧制静高時代から仰秀寮の事務を担当され、この同窓会の運営にもお手伝いしていただいた茂木さんという女性がおりましたが、彼女が昭和60年に退職されたときに「はげます会」を開催いたしました。残念ながら、昨年お亡くなりになりました。昭和62年には寮史「花時うたうべし」及び寮生名簿を出版しています。また、昭和63年には静岡支部が初めて設立されています。平成元年には開学40周年の記念行事が行われ、この年に同窓会初代会長である小西会長から杉田会長へバトンタッチされています。平成3年には、先ほども触れましたが、旧制静高同窓会との共同作業により旧大岩校舎跡地に歌碑“地のさざめごと”を設置しております。この時に完成記念全寮コンパ、除幕式と同時に旧制静高70周年記念大会が行われています。また、同窓会機関紙「岳」の年2回の発行と名簿の4年に1回の発行が決められています。それから平成5年に初めて終身会費制が導入され、新入生は入学時に会費をお支払いいただくことになり、それまで苦しかった財政の運営も確立されてきました。平成9年に大岩キャンパスの模型を製作しました。平成11年には大学50周年記念文集「大岩発大谷へ」及び「静岡大学50年」通史、写真集を刊行しております。平成14年に旧制静高創立80周年記念大会が行われ、平成15年には文理・人文学部同窓会設立50周年記念総会が開催されています。平成16年に静岡大学全学同窓会が設立され、名簿が発行されています。平成19年に旧制静高85周年記念大会が開催されています。そして、平成21年に「静岡大学文理・人文学部同窓会寄附講座」が特別講座として開講されており、現在は連携講座と名前を変えて継続して行われております。その間の平成24年には人文学部が人文社会科学部へ名称を変えたため、同窓会の名称も「岳陵会」へ変更しております。これは学部の名称が変わるたびに同窓会名を変えるのは適当ではないとの判断によるものです。

 

つぎに当時の学生生活についてお話したいと思います。先ほど申しましたように旧制静岡高等学校は大正12年に開校いたしました。当時の合格者は200名でまだ寮がなかったため、全員下宿生活を余儀なくされたようです。特に強調しておきたいのはこの1期生がまだ寮が出来ていないにも関わらず寮歌を作ったことです。これは当時の学生が如何に寮に対する期待感が強かったかを物語っています。寮歌については後程あらためて紹介いたします。開校の翌年の大正13年に寮が完成し、1年生134名、2年生22名の合計156名が入寮したそうです。開寮当時は生活すべてが兵営式で、6時起床、22時点検、24時消灯で22時の点検前に寝る者は点検前就寝届けを提出する必要があったそうです。朝食7時、昼食12時、夕食17時と決められていました。大正15年には自治寮となり、静高自治寮と名乗っていました。当時の寮費は1850銭ですべて込みだったようです。当時の学生は学帽にマント、朴歯の下駄、腰に手拭いといういでたちで街を歩いていました。この頃の寮の行事は、各種コンパ、ストーム、ロンド、全寮旅行、寮祭等様々な行事が行われていました。コンパは全寮形式の新入生歓迎コンパや卒業生送別コンパのほかいろいろなグループでも行われていました。ストームとはパンツ1枚の裸で肩を組み行列を作り寮の廊下を足を踏み鳴らして歌や掛け声で行進していくと迎える側はバケツや洗面器などで水を頭からかけて迎えるという行事です。新入生歓迎ストーム、返礼ストーム、街へ繰り出す街ストーム等いろいろな場所でストームが行われたようです。ただ、街ストームだけは裸でやるわけにはいかなかったようで、1階の展示室に当時の写真がありますが着衣していたようです。ロンドとは肩を組み円陣を組んで寮歌やノーエ節などを唄いながら、足を上げ下げしながら、特にファイアーを中心に回るものです。このような行事は戦前、戦後を通じてほぼ変わらない形で仰秀寮が無くなるまで続いていました。また、行事ではありませんが、開寮時から終寮時まで続いた独自の現象を紹介します。新入寮生が「暴風雨警報注意」の張り紙を見て不思議に思っていました。夜も更けた頃、窓の外で雨と思われる音が数秒から10秒ぐらい続きました。これは「寮雨」と称して伝統的に続いたものです。ちなみに2階の住人には関係ありません。真相は皆さんのご想像にお任せします。その後、昭和に入り、軍国主義に走る政治の動きは徐々に学校、寮にも影響が及んで来ました。学生運動への弾圧も次第に激しくなりました。でもまだ、マント、下駄、手拭いのいでたち、ストーム、寮歌の高唱等は許されており、市民も学生には非常に好意的であったようです。昭和11年、私の生まれた年ですが、静高自治寮から仰秀寮へと名前を変え、仰秀寮時代の幕開けを迎えることになります。しかし、昭和13年には国家総動員法が施行され、各種の統制が厳しくなり、軍事体制へまっしぐらに進み始めました。学徒動員も始まり、多くの学生が様々な工場等へ働きに行くことになりました。配属将校(軍人)による戦時体制や様々な統制の中でも寮の伝統的な行事や生活は細々と続けておりました。昭和15年の静岡大火災により静岡市内の相当部分が焼失し、焼け野原となりました。この時、学生はボランティアとして炊出しや交通整理、情報収集等市民の為に働いたそうです。また、3年間の学習期間が2年半に短縮され、昭和16年には1年生の全寮制が施行されました。翌昭和17年には民間の建物(中島屋旅館)の一部を借りて「真寮」が開寮となり、2、3年生が入寮しています。昭和18年頃になるとさらに軍事色が強まり、学校への直接指導による24時間教育、軍事教練的行事への参加の強要、書物・出版物の検閲が強化されました。そして遂に自治寮としての仰秀寮が壊され、学校の管理下に置かれました。映寮、悟寮等の寮名が廃止され、1寮から5寮、真寮は6寮とされ、1年生全員はクラス別、五十音順に入室させられました。寮生以外の寮への出入り禁止やマント・下駄も廃止となり、国民服、国民帽、ゲートルで軍事訓練や勤労動員に狩り出されました。文科系学生の徴兵猶予廃止により第1回の学徒出陣も始まりました。昭和20年の爆撃で悟寮が焼失し、真寮からの立退きも迫られて、廃寮となりました。そして8月15日に終戦を迎えました。しかし、9月には授業も寮も再開され、各寮名も復活し、戦後の新しい仰秀寮がスタートしました。そして翌昭和21年2月に再建のスタートコンパが行われました。相変わらず食料、燃料不足で調達に苦労していました。学生はリヤカーを引いて遠くは磐田方面まで買出しに行き、ヤミ物資の取締まりが厳しかったため、帰り道は駐在所を避け、遠回りして運んだようです。昭和23年には旧制最後の学生が入学し、翌24年には新制静大文理学部の1期生が入学しています。昭和27年に悟寮が食堂北側に再建され、部屋は以前の和室から2段ベッドの2人部屋になっていました。資材不足により古い材料を使って建てられていたため、悟寮でのストームは禁止されました。当時、学生は経済的に皆貧しく、奨学金は月1,500円程度、バイトの家庭教師は週2~3回で1,000円位、他の肉体労働のバイトもやりながら暮らしていました。食糧事情も相変わらず悪く、夕食は丼ぶり飯1杯と一汁一菜、昼食はさつまいも半分とかジャガイモ1個等非常に貧しいものでしたが、昭和25年頃になってやっとコッペパン1個又はうどん1杯(具のないかけうどん)や肉の見えないカレーライス等が出るようになりました。そのため、学生達は夜食としてコッフェンを頻繁に行っていました。コッフェンとは、実家が農家の学生が実家から調達した米を使って飯ごうで米を炊き、醤油をかけて皆で食したもので、他に玉子とかマグロの缶詰は貴重品で滅多にお目にかかれなかったようです。当時、寮の廊下には電熱器が1台設置されており、それを使ってご飯を炊いたり、洗面器を鍋替わりにして味噌汁を作ったようです。しかし、停電も多く、電熱器のニクロム線がよく切れるなど苦労が多かったようです。当時、魁寮の南側に「ハイハイ」というそば屋があったそうで、学生が窓から「オーイ」と呼ぶと「ハイハイ」と答えるのでそのように呼ばれていたようです。かけそばを注文してネギとそば湯をたっぷりと付けてもらい、腹を膨らませていたようです。また、近所のおでん屋や浅間神社横に並んでいた屋台などを補食の場として利用していました。入浴は寮の風呂を使い、15時から16時半の間は魁寮1階に入居していた教官の家族、そして、16時半以降が寮生と教官が利用する時間で、そこでは寮生と教官との裸のつき合いが出来ていたようです。夜は部屋で勉強することはもちろんですが、若いなりに街へ遊びに出かけることも多々ありました。ダンスホールの「カイラク」とか「マル」は18時前に入ると学生は無料で、中で知り合ったメッチェンに帰りにラーメンを奢ってもらうなど学生の特権をフルに活用した遊びをしていたようです。映画は駅南地区の3本立ての安い映画館を利用していました。みかん狩りは仰秀寮の伝統的な行事で賎機山へ数人で出掛けました。農家の人たちは学生には比較的寛容で学生を脅かしたり、追いかけたりはしましたが、捕まえることはほとんどありませんでした。みかん畑で採って食べたり、ポケットに入るくらいは大目にみてくれていた様ですが、中にはたまにリュックサック一杯にみかんを採って実家へ送るという猛者も居たそうですが、そのような悪質な学生は捕まってしまうこともあったようです。帰寮後はコッフェンやダべリング、勉強等で費やし、朝の4時に鳴る臨済寺の鐘(寝忘れの鐘と呼ばれていた)を聞いてやっと就寝という様な生活でした。2階の部屋でダべリングした後に自分の部屋に帰ろうとして窓から外へ踏み出した者がいたようですが、幸い怪我はなかったようです。2階から落ちるのは人ではなく、寮雨が相変わらず続いていた様です。当時、学生自治会は全学連に加盟しており、学内の思想的傾向は革新的傾向が強くなってきました。そこで起こった問題の一つが選挙権です。自治省通達により寮生の選挙権は現住地の静岡市には無く、実家の住所地にあるという、実質的に寮生の選挙権を奪うという暴挙に出ました。寮生は強い反対運動を起こし、最終的には裁判で勝訴しました。また、昭和26年のメーデーでは寮生2名が、静岡県公安条例違反、公務執行妨害で現行犯逮捕されました。1名は不起訴となりましたが、1名は起訴となりました。1審では無罪、検察上告の2審では上告棄却、最高裁では免訴となり、実質無罪を勝ち取りました。この2件ともに学校側の教官による多大な支援があったとのことです。この頃、法経関係の教授が不足しており、学生たちが自ら選んだ人物を教授に迎えるため、相手の自宅まで交渉・お願いに伺ったそうです。そして、昭和28年には文理学部の第1期生が卒業しました。寮史ではこの時期(昭和24年~28年)を新制の創生期と位置付けています。次の昭和29年から34年頃までを定着・安定期と位置付けています。私が入学、入寮したのは昭和30年4月ですのでまさにこの時期になるわけです。寮では映寮第4室に入り、4年生で生物学専攻の鈴木先輩と同室になりました。私が入学した当時の受験料は400円、入学金も400円、授業料は年6,000円でこの後昭和32年度から9,000円に値上げされています。寮費は食費が1日60円で経常費含めて月2,000円でした。収入面では奨学金が月2,000円、昭和32年度から3,000円になっています。この奨学金とバイトで収入のすべてを賄っていました。私は入寮してすぐにバイト探しを始めましたが、幸いなことに寮の4年生の先輩がそれまで自分がやっていたバイトを譲ってくれました。苦労せずに収入源を確保できたのはラッキーでやはり寮のおかげだと思ってます。競輪場のバイトも先輩の紹介で始めました。日給は最初150円位でしたが、年々昇給し300円から350円位になるため、先輩の名前で出勤し、最初から300円位貰った覚えがあります。お金の無い時は他人のコッフェンをあてにしたりしながら、バイトでお金が入ればピースを吸って蝶屋でトンカツを食べてボンという喫茶店でコーヒーを飲み、名曲を楽しむことが最高の贅沢でした。他にはヨッチャン、竹の家、そば屋のハイハイ、浅間の屋台等の飲食店やカイラク、マルというダンスホール、3本立ての安い映画館等学生・寮生の遊ぶところも増えてきました。新入生歓迎コンパに始まる各種コンパ、ストーム、ロンド等の伝統的行事は忠実に学生によって受け継がれ、続いていました。ソフトボール、野球、ピンポン、バレーの対寮マッチでは優勝チームのみ夕食にハムエッグがつけられました。寮は基本的に女性の出入り禁止でしたが、女学生のバイトによるクリーニングというより当時では洗濯屋さんという表現が適当な女性の出入りは許されており、数少ない例でした。クリーニングや洗濯をもじって「クリメチ」とか「タクメチ」と呼んでいました。この頃、教育行政の分野で近代化・民主化に反する動きが活発化してきました。教育委員の任命制、教員の勤務評定、教科書の検閲等で、それに対する反対運動が起こり、自治会、寮生ともども参加し、県庁への座り込み等の抗議活動を続けました。また、寮に対しても入寮選考に対する学校側の介入が行われました。元来、入寮選考は寮生による入寮選考委員会が入試時に面接し、収入、生活費、出身地、家族等の情報を聞き取り入寮順位を決めており、入試合格者に合格通知と共に入寮許可証を送付していました。寮割り・部屋割りも選考委員会が決定していました。学校側の主張は、寮の自治は認めるが、国有財産である建物に入居する者を学生が選ぶのはおかしいというものでした。これに対し寮側もいろいろ反論・抗議しました。交渉の結果、寮はあくまでも学生主体である、参加者は正式な機関の代表として認める、選考の内容について学部側は触れない、選考については一層慎重にあたる、という内容で決着しました。法科の学生による模擬裁判が初めて行われたのもこの頃、昭和30年頃だったと思います。昭和32年の1期に私も寮委員長をやらせていただきました。昭和32年から33年はすべてが伝統的行事の継承で


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