2020年6月7日(日)に開催を予定しておりました「静岡大学全学同窓会2020静岡交流会」及び「岳陵会本部総会・静岡支部総会」につきましては、コロナウィルス感染拡大の影響により中止することが決定されましたので、ご案内いたします。
静岡大学岳陵会事務局
みなさんこんにちは!
「元」学生レポーターの鷲山です。
私、晴れて静岡大学を卒業いたしました!
が、ご存知の方もいらっしゃるでしょう。新型コロナウイルスの影響で、卒業式は実施されませんでした。
卒業証書や祝辞は、郵送の形で送られてきましたよ。
さみしくはありますが、五十年百年に一度の出来事に遭遇したとう「レア」感もあり、少し特別感も感じています。
卒業論文も無事完成し、学科代表として学部の研究発表会にも出場させていただきました。様々な先生に興味を持っていただけてうれしかったです。
皆さまにもぜひ、「山梨岡神社の夔」をお見知りおきいただければと思います!
また、工事中だった、図書館前の階段が完成しました!
(工事中の記事はこちら「静大思い出の場所」
http://e-gaku.org/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=745)
遠くから見ると……
上ってみると……
振り返ると……
新しいこの階段を、新入生たちが上っていく光景を想像して、すこし顔がほころびます。
みなさんも大学にお立ち寄りの際は、ぜひ階段を「下って」みてください。開けた階段から望める景色が、個人的にはお気に入りです。
さて、これからの静大に向けて一言。
新型コロナウイルスの影響がありながら、3月31日現在、静岡大学は通常通りの始業になると聞いています。国内に入れない留学生や、帰ってくることができない留学生がいるのではないでしょうか?また全国から人が集まるという大学の性格上、感染者がいないと楽観することはできないと思います。
大学の注意喚起は「マスクをつけてきてください」とのことだそうですが、マスクが手に入らない学生はどうしたらよいのでしょう?
なぜ、学長は通常通りの始業を判断したのでしょうか。
そのような判断を下してしまう学長が推進した「統合再編」は、本当に静大を失墜させはしないのでしょうか。
(全然、一言ではありませんね……)
ただ、後の同学科の学生たちが、学びの機会を縮小されはしないかと、気が気でなりません。本当に資金が縮小されず、スケールメリットを失った大学が失墜しないというのであれば、何も言うことはないのです。
ただ、これからの静岡大学がどうなっていくのか、私は一抹の不安を抱えたまま卒業することになりました。
わが母校である静岡大学……も勿論、人文社会科学部並びに言語文化学科が益々発展していくことを願ってやみません。
最後になりますが、長らくレポートを読んでくださった方々、誠にありがとうございました!
またいつか、どこかでお会いできたらうれしいです。
人文社会科学部言語文化学科中国言語文化コース
鷲山可純


こんにちは! 静岡大学1963年卒業の大村春樹です。
YouTube の「われら若人」、岳陵会の「在学生からのお知らせ」(2019年10月25日)を感慨深く拝見しました。 実は、私はこの歌が生まれた1962年の静大大学祭で工学部実行委員長を務めていましたので、とても懐かしくその当時を思い出しました。
今日はこの場をお借りして、当時の社会や学内状況を知っていただきながら、この歌が誕生した経緯をお話ししたいと思います。
学制改革により1949年静大が誕生して10年余が経っても、日本はまだ戦後の混乱期を抜け出しておらず、私達は新しい社会秩序と経済の早期振興に向けて足掻いていました。
1951年にサンフランシスコ講和条約が締結され、1953年に朝鮮戦争は休戦となったものの、1960年安保条約改定に絡み、日本の国防は如何にあるべきかで社会も騒然、学生達も立ち上がって、当時の日本社会は大きなうねりを迎えていました。
一方で、日本の経済発展のためには科学技術の振興が叫ばれて、大学と産業界が連携する「産学協同」で、大学と企業の共同研究、研究資金への援助、研究/技術者教育の促進などを推進し始めた頃ですが、成果の軍事技術への転用などが心配されていました。
当時、各大学では学生の自治意識が強く、静大も各学部に自治会があって、大学如何にあるべきか、学内の諸問題への取り組み、学生生活の充実などに向けての諸活動をしていました。しかし、静大の4つの学部(当時)は、静岡、浜松、磐田キャンパスに分かれていて、駅弁大学、タコ足大学と揶揄されていたのです。
1962年第13回 静大大学祭では、各学部に大学祭実行委員会が自治会主導で設立され、各学部の委員長が集まって、大学祭のあり方、骨子などを話し合うことから準備はスタートしました。
各学部の大学祭実行委員が集まって各々の考えるところを出し合って得た結論は、次のようなものでした。
「4学部のキャンパスが地理的に離れていて、各学部が研究活動で協働することも難しく、また各学部の学生が気軽に交流して、お互いの考え方や知識を交換し合うことも容易ではない。
特に、これからの時代、学生は単なる専門性だけを追求するのではなく、より広い視野から自分のすべきこと、できることを考えて、勉学、研究することが望まれる。 このためには違った分野の人達との日ごろからの気軽な交流の機会が必要だと思う。
せめて、1年一回の大学祭には全学生が一堂に会し、時空を共有して同じ大学に学んでいることを実感し、出来ればその後、学生間でいろいろな交流ができるようにしていきたい。」
そこで、大学祭実行委員会は「全学の集い」の実現可能性の検討に入りました。 各学部の大学祭の日程も揃える必要がありそうだ。 そしてその最終日が「全学の集い」には適していそうだ。全員が集まれる場所は何処か? そこまで参加者をどのようにして運ぶか? 集まって何をして一体感を出すかなどなど…。
天候のことを考えると、何千人が集まれる場所は静岡の駿府会館(今はありません)しかなさそうだ。 浜松や磐田からの学生はバスを借りきるとしてその費用はどうするか? 学生の一体感を出すには何かが必要だ、そうだ全員でこれからも歌える学生歌などができたら良いだろう、全員で歌おう!
そこで初めて大学側にも学生の真摯な気持ちを伝えて、その可能性を話し、協力を求めました。 大学側もその趣旨、実現提案に賛意を示してくれ、具体化することになりました。
こうして「われら若人」の歌が誕生することになったのです。
私は、公募により「髙嶋善ニ」さん作の歌詞が採用され、当時新進気鋭の作曲家だった石井歓さん(当時桐朋学園大学教授)に作曲を依頼するなどの作業にはあまり関わっておらず、細かい顛末は記憶していません。
私は工学部からの参加者をどうするかに頭を痛めていました。
何人が参加してくれるだろうか? バスは何台頼めば良いか?
バス代として皆からいくら出してもらえるか? 確か実際にはバスは17台、参加者全員から400円宛(当時生協の食事は1日90円)を頂いたと記憶しています。
1962年11月20日から始まった大学祭、工学部では学内を解放しての展示や各種イベントを行い、25日の大学祭最終日バスを連ねて静岡に揃って行き、駿府会館での「全学の集い」で「われら若人」を参加者全員で歌ったのは昨日のようです。
当時の静大工学部男声合唱団のメンバーで同期の清水(淹)氏、桂川氏などによれば、「全学の集い」での発表の何日か前に、文理学部、教育学部の静大グリークラブのメンバーと、合同で静岡に集まり「われら若人」を作曲した石井歓さんから特訓を受けたそうです。「石井先生に強く指導された記憶は鮮明です。そんな歌い方ではだめだと何回も歌い直された記憶です」と。 当時の皆さんは静大OBグリークラブのメンバーとして、今も「われら若人」を歌い続けて下さっています。 (完)
当日の写真;島田氏と筆者 (左)
(付録)「全学の集い」式次第 全ページ

