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投稿者 : 事務局 投稿日時: 2018-10-05 11:39:32 (74 ヒット)

平成29年度 静岡大学岳陵会 連携講座 第15回

(岳陵会との交流会)

 

日 時  2018129日(月)1425分~1550

会 場  静岡大学 静岡キャンパス「大学会館」ホール

受講生  82

 

 

今年度の最終講義は、第2回講師 木下学さん(人文29回 言語文化)がコーディネーターとなり、同窓生と学生との交流会を開催しました。

 

 

 岳陵会からの参加者

海野 徹さん(人文 4回 経済)

祐嶋繁一さん(人文 4回 法 

水谷文一さん(人文 5回 経済)

木俣 晁さん(文理12回 経済)

福島英夫さん(人文 3回 経済)

杉原啓介さん(人文16回 経済)

木下 学さん(人文29回 言語文化)

 

 

はじめに、同窓会からの参加者が一人ずつ簡単な自己紹介をした後、7つに分かれてグループ討論をしました。


 

「学生時代にやっておいたら良かったことは?」

「大学で学んだことは社会に出て役に立って

いるのか?」

 

 

  

「自分の興味ある分野が分からない」

「どんな勉強をしたらいい?」

「勤めてから分かった仕事の魅力は?」

 

 

 

 

参加した皆さんは、学生からの大

学生活、就職活動、就職した後な

どの色々な質問に対し、丁寧に答

えていました。

 

最後に全員で集合写真を撮り、本年度の連携講座は終了しました。


 


投稿者 : 事務局 投稿日時: 2018-10-03 11:22:28 (60 ヒット)

平成29年度 静岡大学岳陵会 連携講座 第14回

 

日 時  2018122日(月)1425分~1550

会 場  静岡大学 共通教育B501

受講生  80

講 師  前田 巧 様  

司法書士 

(人文学部5回 昭和48年 法学科卒)

演 題  「 現代社会の変容とキャリア形成 

 

 明けましておめでとうございます。人文5回卒の前田です。浜松で司法書士をやっております。司法書士ってご存知ですよね? 私の静岡での人生は静岡大学から始まりましたので、久しぶりに原点というか故郷へ帰ってきたような気分です。現役リタイヤの前に、このような機会を与えていただいて有難うございます。とは言いましても、私は自営業ですので、人前で話したり、会議で発表したりする機会がありませんので、このような大勢の前で、うまく話す自信はありませんが、最後までよろしくお願いします。

 それでも、長く生きておりますと、長と名の付く仕事が舞い込んでくることもありまして、次男が中学の時にはPTA会長を仰せつかることになり、総会、入学式、卒業式などで恥をかかせてもらいました。それから静岡県司法書士会の浜松支部には、現在140名程の会員がいますが、支部長の経験もしました。余分ですけど裁判所の調停委員も10年程引き受けた時期があります。

 苦手なことを引き受けていつも失敗するのですが、逃げるより失敗した方がましという勝手な思い込みがありまして、それで結局、周りに迷惑を掛けることになるのですが。それで今度も同窓会の浜松支部長が、「順番だから」ということで、ここにいるわけです。難しい話は出来ませんので、反面教師になれればいいかなと思って、話そうと思います。

 

1 どうにか静岡大学へ

ところで県外出身の方はどれぐらいいるのですか?私の時代には法学専攻は50人で、まわりに静岡県内の人の記憶はなかったのですが、同窓会名簿を見たら5人ほどいました。聞きませんけど、やはり、今は現役の方の方が多いのでしょうね。私の頃は一浪が普通で現役は希少価値でした。去年の夏の甲子園はご覧になりましたか?公立でベスト8になって話題になった三本松高校のある香川県東かがわ市の三本松が私の故郷です。私が高校に入る前に「末は博士か大臣か」という映画がありまして、小説家の菊池寛と衆議院議長になった綾部健太郎がモデルでみなさんは当然知らないでしょうが主役はフランキー堺と船越英一郎の父の船越英二でした。二人とも旧制高松中学、今の高松高校の卒業生なので私も、近所の人に「末は博士か大臣か」なんておだてられて調子に乗ったものです。

それでも現役の時の大学入試では、東大に30数名合格して、全国20傑に入るような高校でした。当時は、国立大学は一期校、二期校に分かれていまして、私は無謀にも、一期校の法学部一本に賭けたのですが、見事に散って浪人になりました。何故そんな冒険ができたかというと、わが校には、一年間の補習科がありまして、4年生ですけど、公立の予備校ですね。ところが、この入試が結構難しくて、ここに落ちて浪人せずに、地元の香川大学へ行った友達もいるくらいです。入ってからも、成績順に1組、2組に分けられて、夏には、またクラス替えの試験があったんです。団塊世代の末っ子ですので、上からの浪人だらけで、ちょうどその頃、高石ともやの「受験生ブルース」というフォークソングが流行っていて、彼が香川大学へ来たときに聞きに行ったりしました。

 当時は、すでにどこの大学でも学生運動が盛んで、7月になって東大の安田講堂も学生にバリケード封鎖されて、機動隊との激しい攻防戦を繰り広げていました。年末になって、文部省は、一方的に東大と東京教育大(現在の筑波大学)の入試を中止すると決定しました。年を越して1月になって機動隊が突入してやっと封鎖が解除されました。皆さんは、攻防戦の記録映像を見たことがありますか?封鎖が解除されたので入試があると思ったところ、翌日に東大も入試の中止を受け入れてしまいました。「大学の自治の崩壊」とまで言われました。

当時の国立大学の法学部の定員は東大が400人台、京大が300人台、阪大、神戸大、一橋大などが160人位であったと記憶していますが、東大の入試が中止になると、どういう影響が出るか想像してもらえると思います。私の静大の受験番号は888番だったのでいまでも憶えています。倍率は20数倍でしたが、実際は、一期校や私立に合格して何割かは欠席者がいました。浪人したのにまた第一志望校に落ちてしまって、どうにか静大に合格して、傷心のなか、静岡駅はまだ木造だった頃ですけど、初めて片山のバス停に降り立った時は、田舎で砂ぼこりが舞っていて、足が宙に浮いている感じでした。大学は封鎖されていて、いつ始まるかわからない状況でした。とりあえず、高松で下宿を始めて、封鎖解除のデモに行ったりしているうちに5月になって、やっと機動隊が入って解除されたのですが、駿府会館での入学式はなくなり、昔の人文棟の教室でオリエンテーションのような入学式で始まりました。

最初の下宿は、納屋を改造した6部屋で、そのうち4人が新入生で、それも皆、人文学部生でした。自分だけ受験に失敗したという気持ちが強かったのですが、彼らの状況も同じようなもので、大分、慰められました。彼らとは、今でも三河の温泉で新年会をやっています。

当時の授業料は高校より安いくらいで、仕送りと育英会の奨学金が8千円、中学生の塾の講師のアルバイト料等で月4万円ぐらいあったかな。下宿代は6千円ぐらいだったのでリッチな学生時代でした。その分、麻雀したり、ボウリングしたり、よく遊びました。喫茶店にも入り浸っていました。受験に失敗したという思いが強かったのか、勉強に集中出来ず、4年で卒業できればいいという怠惰な生活で4年間を過ごしました。それでも同級生は優秀で、4年生の夏期講座に名古屋大学から刑法の基本書も書いておられた大塚仁先生が来られて、「今年の司法試験の短答式の合格率は静大は一橋大の次だった」と言われたのを記憶しています。人数が少ないから当然のことかもしれませんが、結果的には私の知る限り50人のうち、5人は法曹界へ進んでいます。

2 就職活動は自分で

弁護士は手遅れでも、将来、何か資格を取って独立したいという願望はあったのですが、勉強してないので、取り敢えずどこかに就職しなくてはいけない。法律ですので、金融か保険かぐらいしか思い浮かばなかったところ、信託銀行には不動産部門があって、不動産鑑定士の受験を援助してくれると聞いて「これぐらいかな」と思いました。3年の後半には、学校へたくさん求人票も来ていて、依頼すれば、当然、学校からの推薦状も貰えたはずですが、如何せん、成績がパットしないので、取り敢えず自分でまず就職活動をしてみようと決めました。

静岡駅前に信託銀行の支店があったので、飛び込みで入ったら、数日後に改めて来いとのことで、約束の日時に行くと、きれいな女性社員に案内されて、支店長に会い、簡単なペーパー試験を受けました。しばらくして連絡があり、東京本社に行くと、その日は、待合室に既に10名ほど来ており、私が入るとすぐに人事部の方が来て、特別に労いの言葉をかけてくれました。「あっ、これで採用されるな」と感じたとおり、内定を貰えました。その信託銀行には、学校推薦でも2名採用され、2人とも支店長になりました。私も、居ればなれたかも知れませんが、どうでしょうか?

名古屋支店に配属になり、驚いたことに、新入社員でいきなり、日銀から何億もの現金をジュラルミンケースを持って取りに行かされました。もちろん、労務社員の運転で行くのですが。ある日、日銀に忘れ物をして、取りに引き返したんですが、閉店時間がギリギリで、駆け足で帰ろうとして気づかずにガラスのドアというか、壁をぶち破ってしまいました。スローモーションの様にガラスがおちてきて顔中血だらけになったんですが、広い廊下には誰もいなくて、両側の壁の色と同じ色をしたドアがあったのでノックして、やっと開けてくれた日銀の職員の方に、私の第一声が「僕の鼻はありますか?」でした。大したことが無くて、恥ずかしい思いをしたのですが、後日、日銀から果物の篭盛が届きまして、上司に、「日銀に届けるものはあっても貰ったのは初めてだ」と皮肉を言われて、いつの間にかどこかへ消えて私の口には入りませんでした。

 

3 どうにか司法書士に

入社して間もなく、1年後輩の教育学部の女性が独身寮を訪ねてきて、妻ですが、名古屋で教員試験を受けたいというので、私もどうせ3年くらいで転勤だから、静岡で受けるようにと二人で決めました。 都会のサラリーマン生活にどうもなじめそうにないと思っていたところへ、妻は一人っ子ですし、本当のことを言うと、彼女は教員試験は受かりそうだし、しっかり養ってくれそうだったので、浜松で生活できるよう早く準備した方がいいと決断して、8月末で退社しました。5か月で辞めたのです。新卒採用の終身雇用の時代ですので、もはや、大きな会社には入れそうもないので、資格を取って独立するしかないと思い定めて、不動産鑑定士よりも一番独立に向いていそうな司法書士の勉強を始めました。

ここからが、恥ずかしい時代で、静岡駅の隣にある郵便局でアルバイトを始めました。10人ほどで郵便物の袋をトラックに一杯に積み込んで、それから、歩いて先に駅へ行きトラックから荷物を台車に乗せかえて、貨物列車に積み込みます。一日に何回か繰り返すのが仕事です。仕事中にホームで友達と彼女のデートに出くわしたときは、流石に焦りましたね。地下に畳の控室があったのですが、はじめはアルバイトの大学生と思われて、口も聞いて貰えませんでした。力仕事なので一人でも休むと彼らに負担がかかるので、上の階の中間管理職の係長を皆で突き上げました。組合が強かったですね。欠勤の人が出るとアルバイトを頼みに係長が、夜でも下宿に訪ねて来たのです。それに答えているうちに段々可愛がってもらえるようになりましたが。妻の卒業式前の2月に結婚して、私は無職、妻は学生結婚ということになりますが、よく妻の両親が許したなといまでも不思議です。4月から妻が下田の高校に赴任が決まったので、恥かしながらついていきました。その年は準備不足で不合格。幸い翌年2回目で合格しました。静岡県で8人でした。10月から下田の司法書士事務所で研修を兼ねてアルバイトをさせてもらいました。正直に言いますと、その間、県庁も受けて学科は通るのですが、面接で落ちるんです。大学の推薦もありませんし、「下田の土木事務所はどうか?」と聞かれたので、「はい喜んで」と答えれば受かっていたかもしれませんが、早く下田から出たかったので「え、土木ですか」とつい正直に答えてアウトでした。そのせいかどうか分かりませんが、もし受かっていても、どちらの人生が良かったか解りませんが。2年間下田にいて4月から単身浜松へ行くことにしました。結果的に、妻とは1年間別居することになりました。

司法書士会は県単位の強制会で入会しないと、開業できません。4月に入会して、妻の実家の近くに小さな事務所を借りて、晴れて「後ろ指を指されない社会人」になれたのが26歳でした。幸い、事務所のある地域には同業者がいなかったので、1年目から順調に仕事量が増えていきました。8年間ここで基礎ができたので34歳のときに借金して、法務局の近くへ移転しました。後で紹介しますが、司法書士は、主に法務局に書類を提出するのが仕事です。仕事は順調に増えていきまして、平成19年、58歳のとき、法務局、裁判所の移転に伴い、現在の事務所に再度移転しました。平成27年に長男が弁護士として独立して、同じ事務所に入ってくれたので、前田法律事務所として現在に至っています。
 68歳になりますが、仕事を辞めても、退職金は自分で貯めておかなければいけないし、年金も国民年金ですので知れています。毎日、趣味に生きる自信もありません。決まった時間に決まった場所へ出かけていけることは、素晴らしいことかも知れないと思って、仕事のある限り現役を続けて行こうと思っています。 

 

4 司法書士とは 司法書士にできること

私の仕事について話したいと思います。まず司法書士とは、明治5年の司法職務定制のなかの「代書人」がルーツです。弁護士は「代言人」といいました。140年以上の歴史があります。若い人には縁が薄いですが、不動産や会社の登記の専門家というイメージが強いと思います。高度成長期やバブル経済期に金融や不動産に関心が集まって、登記手続の専門家として注目されたからかもしれません。それでも「司法」と名がつくとおり、登記手続だけでなく、本来、いろいろな法律問題に対して、訴訟の関係書類を作成して、本人訴訟を支援してきた歴史があります。努力の甲斐があり平成14年の司法書士法改正で、法務大臣の認定を受けた「認定司法書士」には、簡易裁判所の訴訟代理権が認められました。私も第一回試験で認定されましたが、これで、晴れて、額は少ないですけど140万円以下の民事事件の訴訟代理人になれるようになりました。私の場合は、逆に「中途半端なことができない」と思うようになって裁判所関係の案件は遠慮するようになりました。それから、高齢化社会に対応して、2000年に制度化された「成年後見制度」の専門職の後見人には司法書士の割合が一番多くて弁護士よりも多いんです。

司法書士ができることにはどのようなことがあるかというと、不動産を売買・贈与して所有権を移したい、個人事業をやめ新しく会社を起こしたい、不動産などの遺産を適切に分割したい、親族のいない高齢者の財産管理、借金が返せないので債務整理したい、ネットオークションで買った商品が届かないなど日常のトラブルなど様々な分野でサポートをしています。

 

5 家、土地について

家、土地についてですが、不動産登記とは、土地、建物に関する情報、所有者は誰か、面積はどれぐらいか、担保はついているのかなどを、法務局に備え付けられた登記ファイルに記録して、一般社会に公開して取引の安全を図ろうとする制度です。土地を売りたい、買いたいときは普通、不動産業者(宅地建物取引士という資格者がいます)に依頼して、売買契約書を作成します。当事者だけでも出来ないことはないのですが、売主が大きい土地の一部を売りたい、あるいは買主が正確に測量してから買いたいと思えば、土地家屋調査士に依頼します。農地の場合は、農業委員会の許可が無いと売却できないので、許可申請を行政書士に依頼します。買主が銀行から借入をするするときは、担保を提供する必要があれば銀行と抵当権設定の契約を締結します。売主は、この土地に担保がついていれば抹消できるように、予め担保をつけた銀行と交渉しておく必要もあります。すべての準備が完了してから、代金の支払いと土地の引渡しの決済を同時に行う日を決めて司法書士が立会います。一般には買主指定の金融機関に売主、買主双方、仲介業者、売主に抵当権が付いていればその金融機関が一堂に会して行います。所有権移転登記に必要な書類、買主の抵当権設定登記に必要な書類、売主の抵当権の抹消登記に必要な書類等を預かった上で、私の方でゴーサインを出せば、代金が売主から買主へ支払われて終了します。それらの登記を当日中に法務局に申請します。翌日でもいいのですが、売主の隠れた債権者が差し押さえの登記や抵当権設定登記を先に申請するかもしれません。売主が悪意で二重に売買するかもしれません。あるいは、司法書士のチェックが甘くて書類上の不備があり、申請が取り下げになれば、すべての当事者から「二度と依頼がない」という覚悟が必要です。大金が動きますので損害賠償のリスクもあります。その割には、報酬が低いのは残念ですけどね。後日、法務局から発行される、いわゆる権利書を受領し当事者に返還して司法書士の仕事が完了します。将来、買主がローンを返済したときには、抵当権の抹消登記をすることになります。贈与したいときは贈与税の関係で税理士からの依頼もあります。

家を建てたいときは、知り合いの大工さんや建築士に依頼したり、住宅会社を選択して、まず市に建築確認の申請をします。工事が完成すれば土地家屋調査士に依頼して建物の所在、種類、構造、床面積を調査して法務局に建物表示登記を申請します。最後に司法書士が所有権保存登記の申請をして、建物の権利書を取得します。借入があれば抵当権設定登記もすることになります。

資格業ですので、規則や通達の変更に遅れないよう日々勉強する必要がありますが、自営業ですので、机に座ってばかりでは仕事になりません。先ほどの住宅会社、不動産業者、金融機関、あるいは土地家屋調査士、行政書士、弁護士、税理士等他の資格業の方々との繋がりが必要です。バランスが大切ですが、やはり営業能力の有るものが豊かになると思います。借り入れをして、土地を買う、あるいは建物を建てるとき、司法書士の知り合いがいる人は別として、最終的に司法書士を選択し依頼をしてくるのは、10年ほど前までは金融機関主導でした。地元に友人がいないので、暇なとき、今日は金融機関のどこどこ支店、明日はどこどこ支店と決めて顔を出しました。どこにも既に決まった司法書士がいるのでなかなか仕事を回してもらえませんでした。それでも近くの信用金庫から初めて依頼の電話があったときは感激しました。その支店の次長さんの御恩は今でも忘れられません。その信用金庫のOB30名ぐらいでゴルフコンペを長くやっていますが、OB以外で私だけは、今でも参加させてもらっているんです。時代が変わって、今は金融機関より住宅会社、不動産業者の主導で仕事の依頼が来ます。地元出身者がより有利になったような気がします。弁護士をはじめ資格業の人数が大幅に増員されましたし、将来、定型化された仕事はAIにとってかわられます。銀行員の縮小がはじまりましたし、バルト三国のエストニアには税理士資格が廃止されたと聞いています。司法書士も将来、登記業務が解放されると存在価値が無くなるかもしれません。本当は複雑な登記もたくさんありますが。登記業務で件数をこなす薄利多売の時代は終わったようです。

 

6 相続の基本

相続についてお話します。どなたも将来、一度くらいは経験するかも知れないのが不動産の相続登記です。相続税がかかるかどうか不明な場合が多いので、税理士を経由しての依頼がくるのも一般的です。いくら残すと相続税がかかるか知っていますか?平成27年から相続の基礎控除が少なくなって、3千万円+600万円×法定相続人の数を超えると相続税の申告が必要になりました。3人だと4800万円になります。名古屋国税局管内では相続税の対象者は11%ぐらいだそうです。それまでは5千万円+1千万円×相続人数でした。3人だと8千万円までは申告しなくてよかったのです。

 私たちの実務では、依頼があれば、まず、亡くなった方が生まれてから亡くなるまでの戸籍を全て集めます。法律で定められた相続人を調査確定します。先代の戸籍も取るので戦争や火事で消失している時もあります。同時に市役所で固定資産評価証明書を取り寄せて不動産の調査をします。預金、株式等の聞き取り調査もします。遺言書があれば、その指示に従って登記をします。無ければ相続人全員による分割の協議をしてもらい、遺産分割協議書に基づき登記をします。相続人の一人でも反対して、協議がまとまらなければ裁判所へ行くことになります。調停調書、審判に従って登記をします。こんな時は弁護士からの依頼もあります。

 常識だと言われるかも知れませんが相続の基本からお話しします。概要だけさらっと流しますので、興味があるとこだけ覚えてください。

 

  法定相続人は誰か

配偶者は常に相続人です。夫婦の一方のことです。婚姻届のない内縁関係は認められません。子が第1順位。婚姻関係にない男女間の子(非嫡出子といいます)も相続権があります。養子も実子とおなじです。養子は実の親の相続権もあります。故人より子が先に亡くなっていた場合には、孫がその子に代わって相続人になります。この孫のことを代襲相続人といいます。直系尊属が第2順位。父母、祖父母、曽祖父母。子、孫がいないとき。親等の近い者がなります。兄弟姉妹が第3順位。上記の者がいないとき。故人より前に兄弟姉妹が亡くなっていた場合は、甥姪が代襲相続人になります。代襲は甥姪までです。相続人ではありませんが遺言により財産の受取人として指名された者(受遺者といいます)。それらの誰もいなくて、家庭裁判所に被相続人と特別の縁故があったことを申し立て、それを認められた者(特別縁故者といいます)が相続者となります。

 

  相続財産とは

土地建物や預貯金、株式等プラスの遺産だけでなく、故人の借金などマイナスの遺産も対象になります。

 

  誰にどれだけの相続分か

相続人が配偶者と子のケースでは、配偶者が全遺産の2分の1、子が2分の1。子が複数いれば2分の1を均等に分けます。3人いれば一人6分の1になります。配偶者がいなければ子が全遺産を相続します。 子がいないケースでは、配偶者が全遺産の3分の2、直系尊属が3分の1 配偶者がいなければ直系尊属が全遺産を相続します。子も直系尊属もいないケースでは、配偶者が4分の3、兄弟姉妹が4分の1、原則均等にわけます。ただし、父母の一方が異なる兄弟姉妹(半血兄弟といいます)の相続分は、父母双方を同じくする兄弟姉妹の相続分の2分の1になります。

 

  遺言について 遺留分とは

読み方は「いごん」「ゆいごん」どちらでもかまいません。遺言には5つの原則があります。民法の定める厳格な方式に従わなければ無効であるという「遺言の厳格性」、必ず書面にしなければいけないという「遺言の要式性」、遺言者の生存中に独立一連の行為として完成させなければならないという「遺言の一連性」、単独で行い一通の遺言書に数人が共同で行うことはできないという「遺言の単独性」、何時でもその全文又は一部を取り消せる「遺言の可動性」の5つです。いわゆる世間でいう遺言、例えば「仲良くしろ」とか「酒を控えろ」こういうものは法律効果をもたらす法律行為ではなく、法律でいう遺言は民法で定めた項目を文書にしたもので列挙されており、それ以外のことは法律効果をもたらす法律行為ではありません。相続分の指定あるいは指定の委託、未成年者後見人又は未成年者後見監督人の指定、遺産分割方法の指定や委託、遺産分割の禁止、遺言執行者の指定又は委託、遺留分減殺(げんさい)方法の指定。これらは遺言でなければできない行為です。一方、遺言でなくとも生前の行為によってでもできる事項もあり、財産処分、嫡出にあらざる子の認知、相続人の廃除又は取消、祖先の祭祀主宰者の指定などがそれにあたります。

遺言の種類について述べてみましょう。遺言の種類には特別方式と普通方式があります。

特別方式には危急時遺言と隔絶地遺言があり、危急時遺言には病気で危篤・災害で重傷・事故で救出不能・今にも死にそうという時などに口頭で行う一般臨終遺言と、船舶遭難で死亡の危急に迫った者が口頭で行う船舶臨終遺言があります。また、隔絶地遺言には伝染病隔離者遺言と在船者遺言があり、この場合には公証人が立合うことはできませんので別の者を証人に立てることになります。                                                     
 大事なのは普通方式。普通方式には自筆証書遺言と公正証書遺言と秘密証書遺言があります。自筆証書遺言は全部自分で書く、日付を必ず書く、氏名を自書し押印する。これだけで自分で遺言はできます。それと公正証書遺言。これは証人2人以上で公証人のところへ行って口述して公証人に作ってもらうものです。最後に秘密証書遺言。これも公証人のところで作りますが持って帰るものです。持ち帰るものですから紛失、隠匿のおそれがありますよね。あまり使わない方がいいかもしれません。

 公正証書遺言を除いて、遺言書の保管者またはこれを発見した相続人は遺言者の死亡を知った後、遅滞なく家庭裁判所に提出して「検認」を受けなければいけません。検認とは、相続人に対し遺言の「存在及びその内容」を知らせるとともに、遺言書の形状、加除訂正の状態、日付、署名など検認の日現在における遺言書の「内容を明確」にして偽造、変造を防止するためです。証拠保全手続なので内容の有効,無効を判断する手続きではありません。公証人に作成してもらう公正証書遺言は、検認の手続きが不要ですし、偽造変造のおそれはなく、公証人が内容を確認しており、後日無効になる心配もありません。安全で確実な方法です。

 遺言はどのようなときに必要かということですが、第一に法律で定められた相続人に遺産を分けてやりたくない、例えば、すでに学費、結婚、新築、商売の資金等を出している、あるいは非行、迷惑行為が激しいなどのときですね。第二に法律で定められた者以外にやりたい又は公共事業に寄附したいときがあります。そして特に遺言を必要とする者はどのような方か例を挙げますと、家業を継ぐ者に全財産を相続させたいとき、夫婦の間に子供がいないが疎遠な兄弟姉妹にやりたくないとき、先妻との間に子のある男の後妻になったが先妻が再婚して別世帯を持ち子も同居しているときに男が死亡すると扶養もしないのに2分の1が先妻の子にいってしまうのでこれを阻止したいとき、先夫との間に子がある女が離婚してこどもを婚家に置いて実家に帰り再婚し


投稿者 : 事務局 投稿日時: 2018-10-01 11:27:20 (64 ヒット)

平成29年度 静岡大学岳陵会 連携講座 第13

 

日 時  2018115日(月)1425分~1550

会 場  静岡大学 共通教育B501

受講生  80

講 師  新海 裕悟 様  

味の素AGF㈱(旧味の素ゼネラルフーヅ㈱)

マテリアルビジネス部(旧加工原料部)マネージャー

(人文学部18回 昭和61年 経済学科卒)

演 題  「 何かひとつ やりきる 

 

 

こんにちは、初めまして、18回卒業の新海と申します。こんなにたくさんの後輩の前でお話しができることを光栄に思います。今日は夢に向かって突き進んでいる皆さんの、少しでもヒントとなるよう、自分の人生を振り返ってみたいと思います。副題は、「何かひとつ やりきる」、これが今日、皆さんに伝えたいことです。

 

私は、愛知県知多市に生まれ、地元の高校を出た後、今から32年前に経済学科を卒業しました。卒業してからずっとAGFというコーヒーの会社で働いてきました。家族は、長男は就職して家を出ましたが、次男、長女、妻と一緒に4人で、東京で暮らしています。

 

少し順番を変えて、皆さんに興味を持ってもらえそうな話から始めたいと思います。最初にAGFという会社について話します。AGFは加工食品業界の一メーカーです。ビール会社やパン、乳製品も同じ業界です。大きく言うと、同じ業界であればどのメーカーもやっていることは同じです。食品といっても、肉、魚、野菜の生鮮3品は別になります。金額ベースですが、飲料カテゴリーの中で、コーヒーは一番大きな規模があります。

コーヒー豆の輸入量は伸び続けています。高度成長、喫茶店ブームなどを経て拡大してきましたが、若い人のコーヒー離れが心配された時期もありました。それを救ってくれたのがスターバックスやコンビニのコーヒーで、AGFもコーヒーの消費の伸びとともに成長してきました。AGF(味の素AGF㈱)は、全国に拠点を構える、売上約1,300億円の会社です。皆さん、ブレンディと原田知世さんはご存知でしょうか?又吉さんには、芥川賞を受賞される前からお手伝いをいただいています。北川景子さんを採用したカフェラトリーは、最近のヒット商品です。一時は欠品する程販売が集中しました。

AGFの創業は1973年、今から45年前です。コーヒーを中心に、その時代に合った商品を世の中に送り出してきました。私はAGFの急成長を見て1986年に入社しました。よく言われることですが、食品は不況に強く、バブルやリーマンショックが起きても成長が続きました。唯一成長がストップしたのは、1997年前後のコーヒー豆が高騰した時です。初めての赤字に転落しました。赤字になる前の緩んだムード、赤字の年の大幅なリストラ、V字回復をさせる途中のしんどさと、V字回復させた後の喜び、これらは貴重な経験となりました。何故V字回復できたか?といいますと、多くの会社と同じように、古いものを捨てて、新しいやり方に変えられた、ということです。つまり破壊と革新ができたということです。

AGFは総合嗜好飲料メーカーです。皆さんご存知のインスタントコーヒー、レギュラーコーヒーから、ペットボトル、それからスターバックス商品も取り扱っています。今、この中で一番伸びているのは、スティックコーヒーとコンビニのコーヒーです。スティックコーヒーは、古いようで新しい商品です。ひとり暮らしや年配の方が増加し、好みや生活時間が多様化する中で、自分好みのものが手間をかけずに飲めることから市場は大幅に拡大しました。また、コンビニコーヒーは、10年以上前から何度も各社がトライしており、なかなか成功しませんでしたが、時代の変わり目をうまく捉えたことと、品質へのこだわりが成功を生みました。タバコの売上減、震災、ライフライン、女性、年配、ついで買い、淹れたて、ドリップ、100円、などがキーワードです。

商品は、大きく分けると、家庭用と業務用に分けられます。家庭用は、スーパー、ドラッグ、コンビニ、ネット通販などを通じて、業務用は、それぞれのカテゴリー専門の商社、販売会社を通じて販売しています。家庭用は判りやすいですが、業務用は少し判りづらいと思います。家庭用の営業は、スーパーが中心で、お客様は消費者です。その陳列場所「棚割」をいかに確保して、いかに売れるようにするかが仕事です。業務用のお客様は、メーカーや飲食店、自販機のオペレーターなどです。表からは見えませんが、使ってくれるユーザーをいかに増やすかが仕事になります。

AGFは森を守る活動も進めています。これは工場のある、三重県鈴鹿市の森を守る活動です。工場は鈴鹿山脈を水源とする水をたくさん使用していますので、感謝の気持ちを込めて取り組んでいます。

一昨年になりますが、煎というコーヒーが伊勢志摩サミットで採用になりました。日本ならではの繊細なドリップコーヒーが、各国の首脳、関係者から絶賛されました。採用の理由は、日本らしさと美味しさでした。日本の水は軟水でコーヒーが沁みやすく繊細な味がでるのです。

次に、私の今の仕事について話したいと思います。会社には、企画・開発、生産、営業などの機能が分かれていますが、自分はずっとAGFの営業畑を担ってきました。営業はご存知のとおり、会社とお客様を結ぶ役目です。正しいお客様の情報を会社へ伝えて、商品の企画・設計に活かしていきます。

今、自分が所属しているのはマテリアルビジネス部と言って、原料用コーヒーの販売部隊です。お客様は消費者ではなく、メーカーになりますので、基本は丸秘で、詳しくお話することができません。イメージだけですが、例えばこのような商品の原料としてかなりの量を販売しています。皆さんが普段、飲んだり食べたりしているものにもおそらく入っていますので、皆さんは全てお客様ということになります。

AGFは総合コーヒーメーカーですので、コーヒーに関しては全てのお客様の要望に応えることができます。コーヒー豆を焙煎したレギュラーコーヒー、それを工業的に抽出したコーヒーエキス、さらに乾燥させてパウダーにしたインスタントコーヒーなどです。競争相手にはできない特殊な技術でお客様の課題を解決して、売上を拡大するのが仕事です。

 

ここで、ちょっとクイズです。①SOT缶、②ボトル缶、③ペットボトルでどれが一番売れているでしょうか?・・・答えは②ボトル缶ですが、ペットボトルがどんどん増えてきています。

私は、昨年の6月までの3年間、味の素へ出向していました。味の素は、家庭用調味料、業務用調味料、スポーツ用アミノ酸から化粧品、医薬品まで、AGFの何倍もの商品を扱っています。味の素社の製品は、様々なレストランやコンビニのお弁当などにも使われていますので、日本の全ての人がお客様ということになります。自分は、業務用の外食向け調味料の販売を担当しましたが、例えば、レストランへデミグラスソースをおいしくする方法を提案したり、病院へお肉を柔らかくする提案などをやっていました。商品の特長を、実際に調理して説明しなければならないところが大変でした。お陰で料理の腕は上がりました。

これは展示会の様子です。・・・これは、千葉県のとあるレジャー施設のレストランに行った時の写真です。・・・これは、私が小学校へ出前授業に行った時の写真です。4年生のみんなに、うま味の体験をしてもらいました。

味の素への出向の前は10年以上、コーヒーの外食営業を担当していました。仕事のキャリアで一番長いのが外食になります。AGFの外食部では営業部隊のマネージャーとして大手チェーンの開拓を担当しました。某何々コーヒーなど、競合コーヒーメーカーとの競争で、億単位の仕事を獲得したこともあれば、失くしたこともありました。失えば工場の稼働率が下がってさらに苦しくなりますので、会社対会社のチーム戦となります。一番燃えた時期かも知れません。

外食コーヒーの特徴の一つに、コーヒーマシンの活用があります。ドリンクバーやカフェ、コンビニには、様々なエスプレッソマシンやドリップコーヒーマシンがあって、コーヒーの知識や対応力の勝負となり、とてもやりがいがありました。ここで少し外食コーヒーの変遷について触れておこうと思います・・・・・・・。

 

さて、ちょっと仕事の話を離れて結婚についてです。この写真は、自分が入社した頃の社内旅行の写真です。この女性が今の上さんで、この時は、まさか結婚するとは思ってもいませんでした。同期で行ったスキーの写真も懐かしい一枚です。白い帽子が自分で、黄色のウエアが今の上さんです。上さんは、大阪支店入社の同期でした。大切な人は身近に居ますので、皆さんももう一度周りに目を向けてはどうでしょうか。山形への転勤が結婚のきっかけにもなりましたので、新婚生活は山形で始まりました。長男と次男が生まれましたので、そこで過ごした4年半は忘れられない思い出になりました。

 

さて、ここで一休みしてクイズです。日本で一人当たりのコーヒー飲用杯数の多い県は、①鳥取県、②山形県 ③静岡県、のいずれでしょう?・・・答えは①鳥取県です。なんと最下位が静岡県。静岡はお茶を飲むということで説明がつきそうですが、鳥取は何故でしょうか?おそらく、人口構成と県民性に関係がありそうです。コーヒーは中高年の飲用が多いので、若い人の多い都会は少なくなっています。鳥取県のコーヒーの飲まれ方を詳しく調べてみました。インスタントとリキッドコーヒーの家庭内飲用が多く、ミルクや砂糖をたっぷり使います。クリーミングパウダーの使用率は全国一位です。食事中も食後も良く飲むようです。大山の麓には、大山乳業という会社があり、ユニークなコーヒー牛乳“白バラコーヒー”を販売していますので、独特の飲用習慣があるのかも知れません。

 

さて、本題に戻りまして、学生時代まで遡ってみたいと思います。自分は地元、愛知県の高校を出て1981年に静岡大学に入学しました。家の事情もあり、雄朋寮に入りましたが、田舎から出てきて初めての一人暮らしでしたので、とても助かりました。寮での一番の想い出は、ストームと言って、ふんどし一丁で、片山寮や駿府公園へ押しかけるイベントです。今でも残っているのでしょうか?何故そんなことをやっていたのか思い出せませんが、真冬にふんどし一丁で街中をお城まで走って、お堀に放り込まれたり、飛び込んだりしていました。

バイトもいろいろやりました。皆さんも様々なバイトにチャレンジしていると思いますが、お奨めはいろいろなバイトをやってみることです。お寿司屋さんのバイトは入学してすぐ、4月から始めました。5月になってサークルが忙しいからやめますと言ったら親方にメチャメチャ怒られました。法面工事は、清水の先、由比あたりの国1沿いの崖の工事です。あそこを通るといつも、青森から来た出稼ぎのおっちゃんを思い出します。喫茶店も、草薙球場の近くで2年間やりました。

学業の方は、中途半端でしたので、少し後悔しています。考えをまとめて議論することは、この先一生ついて回りますので、トレーニングを積んだ方がいいと思います。今も近先生へは感謝と反省の年賀状を出し続けています。

サークルは山岳部に入りました。入部は高校時代から決めていました。高校1年まで野球をやっていましたが、レギュラーになれそうになかったのでやめてしまい、その時から大学では山岳部と決めていました。当時、ヒマラヤのドキュメンタリーが多く放送されていたのと、自分を鍛えたかったからだと思います。皆さんも登山の経験はあると思いますが、様々な登り方があります。少し長めの山歩きを縦走と言います。スポーツクライミングはオリンピック種目となりました。

当時の山岳部は年7回の合宿を基本としていました。入部するとすぐ、GWにいきなり3000メートルの雪山へ連れて行かれます。それが新人歓迎合宿で、6月には2年生がリーダーを経験する合宿があり、夏休みに入ると約3週間の夏山合宿になります。前半はベースキャンプを張って岩登り、後半が縦走です。3週間分の荷物は50kgを超えるので、入山日は一番大変です。この写真は、北アルプス立山の室堂から剣沢、真砂沢のベースキャンプに入る時の様子です。この日から3週間、お風呂には入れません。これは岩登りの様子です。残雪の残る岩山でのクライミングはとても気持ちがいいです。10月に秋山合宿、11月の大学祭の休みに行く富士山雪上トレーニングを終えると、いよいよ冬山合宿です。冬は雪や氷に対応する装備が増えるため、食料も重くならないように乾燥させていきます。水は雪を溶かして作るので燃料もたくさん必要です。テントはもちろん雪の上です。気温は-20℃くらいになります。ですから、行動中は、水は飲めません。寒さで水が凍ってしまうことと、体を冷やさないためです。朝食時にお腹いっぱいのお茶を飲んだら、後は夕方まで我慢です。お正月の冬山合宿の後、3月の春山合宿(卒業山行)までが1年の活動でした。

普段の活動は、ランニング、ロープワークの練習、近郊の山への日帰り登山、それと合宿に向けた準備です。バイクや車にも憧れがありましたので、せっせとバイトをして自分で購入しました。山の道具は高価なため、山に登るためのバイトは不可欠でした。部費稼ぎのために、富士登山のツアーを企画したこともありました。バスをチャーターして、他の大学の人も含め、無事に頂上まで連れて行くと皆さん感動してくれました。

ちょっと大げさですが、自分の学生時代を振り返ると、気持ちはもちろん、お金も時間も山岳部中心の生活でした。1年に100日以上山にいましたので、1年留年しましたが、その分を山に居たと思えば、とても充実した5年間でした。そんな学生時代を象徴しているのがこの写真です。これは先輩の卒業写真ですが、キャンパスライフのスナップ写真の中に、図書館下の石垣を登る自分の姿が写っていました。今やると問題になると思いますが、毎日やっていましたので、編集の方の目に留まったのでしょう。

 

さて、ここでクイズです。アイガー北壁の最速登攀記録は、①2日と22時間 ②22時間と2分 ③2時間と22分 のいずれでしょうか?・・・答えは、③2時間と22分です。

山岳部時代のエピソードをいくつか紹介します。今回の講義の準備をしていたところ、こんなノートが出てきました。合宿で登る目標のルートを細かく調べたものです。少し気恥ずかしいですが、当時の気合の入れ方が判ります。

これは合宿の計画書と報告書です。35年前は携帯もパソコンもありませんでしたので、全て手書きで、ガリ版刷りの計画書や報告書を、警察、OB、他大学へ発信していました。お陰で、準備と段取りは上手くなり、仮説検証で計画を磨き上げることができました。部員は3~4人しかいなかったため、ひとりで準備することも多く、よくやったと思います。

次に、山を歩く時の隊列ですが、これにも意味があります。だいたい先頭を若くて元気な2年生が歩きます。そして一番後ろを3~4年のリーダーが歩いて全体を見渡します。ポイントは2番目で、技術・体力の劣る1年生が入ります。この1年生のペースで歩くことになります。バテた1年生には精神的な重圧がかかって大変ですが、怒鳴ってもペースが上がるものではありません。ペースを上げるためにどうするか?全員の意識が一つになるととてもいい合宿になります。

もう一つ、登り返すために引き返したという話です。1年生の夏の合宿で同級生が帰りたいと言い出したことがありました。前半の沢登りを終えて、後半の縦走に入った初日に、疲れと足にできたひどい豆のせいでパニックになったのだと思います。その時のリーダーは6年生の先輩でしたが、なんと「じゃあ、みんなで帰ろう」と言って、5時間かけて登ったところを元の場所までもどってしまいました。テントで泊まって、翌朝、自分は下山したら何を食べようかと思っていたところ、「登るぞ」と号令がかかり、再び登り始めました。リーダーは、バテた同級生が気持ちを立て直すための時間を作ってくれたのでした。登るために引き返す、これは今でも教訓として自分の中に生きています。今の仕事にも生きています。

あと一つ、山では吹雪で周りが何も見えなくなってしまうことがあります。それをホワイトアウトと言いますが、確か3年生いや3年目の冬に経験しました。南アルプス縦走の最終日、天候の悪化が早く茶臼岳から下り出す尾根が判らなくなってしまいました。自分はリーダーでしたので、下級生を待機させて探しに行きましたが、尾根なのか谷なのかも判らず、どこを下り出そうかと何度も迷いました。身の危険を感じながら焦って30分くらい歩き回ったでしょうか?吹雪が弱まった一瞬に、見慣れた岩が幽かに見えてホッとしたことがありました。これは、納得するまで自分の目で確かめることが大切という教訓です。これも今の仕事にも生きています・・・・。皆さんにもあるのでは・・・・。

 

そんな学生生活にも終わりが近づいて来ました。そうです。5年目の夏を迎えました。5年目の夏と言えば、既に同級生は就職し、1年遅れの同級生も就活中でした。自分はと言えば、そう、やっぱり山へ入ってしまいました。就職から逃げていたわけではなく、山を極めれば道は開けると本気で思っていました。しかし、別の意味で、この合宿が就職へのきっかけとなりました。OBと話したお陰で夢と現実を結びつけることができ、やっと就職へ踏み出すことができました。親に言われたことも思い出しながら、自分のやりたいことをやれば良い、身近な商品で商売(営業)がやりたいという気持ちが固まっていきました。

これは、受験した会社の一部ですが、32年前でも、8月と言えば就職活動も終盤の終盤、募集の終わっている会社も多く、手当たり次第にハガキや電話で連絡して受けました。面接の受け方を知りませんでしたので、「お宅は第三志望です。」と言って落ちた会社もありました。面接官はビックリしていました。

AGFを選んだ理由は、誰もが知っている身近な商品であることと、成長性、少数精鋭主義という言葉にも心が動きました。採用の通知がなかなか来ず、祈る気持ちで採用担当者に電話したところ、君は補欠なのでもう少し待ってくださいと言われました。その後採用の連絡が来た時はホッとしましたが、ビリからのスタートということで、「俺を採用しないでどうする」と、見返してやりたい気持ちになったことを覚えています。

 

さて。ここからは三つ目のパートで、入社から先程の外食営業の仕事に至るまでのお話しです。時間も迫っていますので、トントンと行こうと思います。入社後、研修を受けて最初に配属されたのは、営業5課でした。新しくできた部署に抜擢されました。営業1課が量販店、2課が卸店、3課が遠隔地の担当、4課がペットフード、そして5課は新製品育成課でした。新入社員なのに新製品課、主力商品も知らないのに新商品を売れるのか?ということで先輩からも相当いじられました。山と同様に、誰もやらないことがやりたいと思っていましたので、とてもうれしかったです。当時の主力はインスタントコーヒー、広がり始めた家庭用のレギュラーコーヒーに参入して、売上を拡大するのが役目でした。優れた上司や先輩と一緒に仕事ができたことも、自分の財産になっています。

但し、実際の活動は30年以上も前のことですから、パソコンも携帯もなく、報告書は手書きで、大変でした。活動はスーパ<


投稿者 : 事務局 投稿日時: 2018-09-28 14:08:36 (65 ヒット)

平成29年度 静岡大学岳陵会 連携講座 第12

 

日  時  平成3019日(火) 1425分~1555

会  場  静岡大学 共通教育B棟 B501

参加学生  人文社会科学部  選択者80

講  師  山口 憲明 様

      総務省 自治行政局 行政課 監査制度専門官

      静岡大学 人文学部 第24回 法学科卒   1992年(平成4年3月)

                  大学院 法学研究科 修士課程 修了  1994年(平成6年3月)

演  題  現代社会の変容とキャリア形成

       - 地方分権の進展から人口減少社会への変化と私の仕事 -

  

皆さん、こんにちは。ただ今、ご紹介いただきました、総務省 自治行政局 行政課におきまして、監査制度専門官をしています「山口 憲明」と申します。どうぞ、よろしくお願いします。今から30年前に静岡大学に入学し、第24回の人文学部法学科卒業生ということになります。

本日の演題は、「現代社会の変容とキャリア形成 - 地方分権の進展から人口減少社会への変化と私の仕事 -」です。このような講演の機会を設けていただき、同窓会や大学関係者の皆様にお礼を申し上げます。

 

さて、本日の連携講座では、皆さんに配布したレジュメに従って、次の5点について、お話したいと思います。

 ① 自己紹介

 ② 地方自治制度への興味

 ③ 恵まれた環境下での学生生活

 ④ あるときは国家公務員、あるときは地方公務員

 ⑤ 皆さんに期待すること

 

では、最初に、自己紹介をします。

1 自己紹介

 

(1)出身は静岡県に隣接する神奈川県足柄下郡湯河原町で、地元の神奈川県立小田原高等学校を卒業し、静岡大学に入学しました。センター試験ではなく、共通一次試験を受けて入学していた世代です。

(2)1988年(昭和63年)4月 静岡大学 人文学部 法学科 入学

      1992年(平成 4年)3月       々       卒業

当時は、一般教養科目と専門教育科目とに分かれていましたが、この共通教育B棟で憲法・刑法・民法を学んだことを思い出しました。第3年次からは、小澤隆一先生の憲法ゼミに所属し、国民主権論や地方自治制度、選挙制度などについて学びました。

(3)1992年(平成 4年)4月 静岡大学 大学院法学研究科修士課程 入学

      1994年(平成 6年)3月          々        修了

この大学院では、行政法を専攻し、まちづくり条例についての修士論文をまとめました。

(4)1992年(平成 6年)4月 自治省に入省

国家公務員Ⅱ種試験(現 一般職試験)に合格し、当時の自治省に入省しました。その後、現在まで、どんな仕事をしてきたかについては、後ほど、お話します。

(5)2016年(平成28年)4月~総務省 自治行政局 行政課 監査制度専門官

監査制度専門官とは聞きなれないと思いますが、都道府県や市町村の監査制度の企画・立案を担当する職で、課長補佐級の地位にあります。なお、総務省とは、皆さんご案内のとおり、2001年(平成13年)に中央省庁改革により、旧総務庁・自治省・郵政省が統合され、誕生した中央省庁の一つです。

 

次に、私がどうして地方自治制度に興味を持ったかについて、お話します。

 

2 地方自治制度への興味

 

(1)皆さんは、毎週土曜日の夜に放送されるNHK総合テレビ「ブラタモリ」の番組を観たことがありますか。この番組では、その町の地理や歴史など紹介し、町の秘密を解く、大変、面白い番組です。私は、元来の鉄道好きもあいまって、各地域の地理や歴史に興味を持っている人間、すなわち、ブラタモリ系統の人間です。

(2)私の出身地・湯河原町は、静岡県・神奈川県の県境に位置し、どちらの県に帰属するかという「熱海市泉地区問題(現在は友好関係にあります。)」が昔からあり、子どもの頃から、都道府県や市町村に関心がありました。

(3)また、湯河原町では土地区画整理事業が盛んに行われ、私の実家が区画整理事業の対象となり、父親が町役場の職員と話し合う場面をみては、まちづくりって、面白そうと、まちづくりにも興味を抱くようになっていました。

(4)さらに、1986年(昭和61年)~1991年(平成3年)のバブル期には、自然の素晴らしい地元の湯河原や熱海、箱根などに、リゾートマンションが、地元住民の反対にもかかわらず、次から次へと建設され、その地域ならではの風情もなくなり、自然破壊も進む現実がありました。何かおかしいことが起きている。なぜ、このようなことが起きてしまうのか、地方自治制度に問題があるのではないかという思いを持ちました。

(5)上記のようなことを通して、良いまちを作るにはどうしたらいいのか、地域のことを地域で決めるにはどうしたらいいのか。そして、そんな地方自治制度にするにはどうしたらいいのか。そのような興味を持つようになったわけです。

 

このように私は、地方自治制度への興味を抱きながら、静岡大学人文学部法学科に入学しました。入学後の学生時代にはどのようなことを考え、どのような学生生活を送ったかについて、次に、お話したいと思います。

 

3 恵まれた環境の下での学生生活

 

(1)少人数で先生と学生が近いことや勉強熱心な先輩に触発され、新法会や模擬裁判へ参加。

・静岡大学では1つのゼミは数名から多くても30名程度の少人数で構成されているのではないでしょうか。都内の私立大学では、1つのゼミに100名を超える場合があるという話を聞くにつけ、静岡大学は落ち着いて勉強できる、素晴らしく恵まれた教育環境にあると言えます。私の所属した「憲法ゼミ」では、10名に満たない程度の少人数のゼミで、議論を深め、多くのことを学ぶことができました。

・また、勉強熱心な、先輩にも恵まれ、先輩との勉強会も行いました。先輩との情報交換や議論で、大いに学習意欲を触発されました。先輩から「・・・という憲法学者は、こんなことを言っている。」「・・・・の本を読んだか?自分の考えとは違うが・・・。」といった会話をよくしました。さらに、「・・・先生の試験の前には、・・・・という有名な先生の本を読んでおくといいよ。」とか、いろいろな情報を頂いて、大変参考になりました。

    ・公務員志望者の多い「新法会」に所属し、主体的に勉強することができました。

・静岡大学法学科の伝統あるイベントである「模擬裁判」にも参加しました。これは法律構成からはじまり、シナリオづくり、役づくりなど学生が自主的に行うものです。当時は「二人の被害者」というタイトルで「駅のホーム上に他人同士の男性と女性がいて、その女性がその男性から嫌がらせを受け、これから逃れようとその女性がその男性を突いたことから、その男性はホームから線路に落ち電車にひかれ死亡するという事件」を取り扱いました。この事件では、女性蔑視の社会風潮への批判を含めながら、誰が悪いのか、この女性の行為は正当防衛といえるのかといったことを裁判する内容でした。現在の私の仕事では、原告になることはありませんが、行政事件訴訟や国家賠償請求訴訟で被告になることがあります。このようなとき、大学時代に経験した模擬裁判が、今でも参考になっています。

・当時と時代状況はだいぶ変わりましたが、恵まれた教育環境は変わっていないはずです。しかも、静岡市が政令指定都市になって当時よりも確実に静岡大学のブランド力がアップしています。こうした利点を活用しないことはもったいないと思います。皆さんは、もっと、自信と勇気を持って、外に向かって行くべきだと思います。

(2)国と地方の関係を上下主従の関係に置く、機関委任事務制度の問題点に気づく。

講義を受けたりしていく中で、我が国の地方自治制度の問題点として、機関委任事務制度があることが分かりました。この機関委任事務制度とは、住民の選挙で選ばれた地方公共団体の首長(都道府県知事、市町村長)を 国の機関、つまり、各省庁の大臣の部下として仕事をさせるという制度です。これでは地域の実情や住民の意思を反映させたまちづくりはできないと考えました。

(3)学部3・4年次には、「憲法ゼミ」に所属。

機関委任事務制度の問題点に気づき行政法を勉強したいと、三橋良士明先生の「行政法ゼミ」に所属しようと思っていましたが、三橋先生がイギリスに留学することになって開講されませんでした。このため、憲法の統治機構や財政法がご専門の小澤隆一先生の「憲法ゼミ」に所属し、国民主権論や選挙制度を学び、地方自治制度を考える基盤づくりをしました。また、憲法のうちの人権や教育法がご専門でご退官後に東京都国分寺市長を務められた山崎眞秀先生にも大変お世話になりました。

(4)静岡大学大学院法学研究科への進学

この頃から研究者を目指すべきか、公務員を目指すべきなのか悩みはじめました。結論は保留にしたまま、地域のことは地域で決めるにはどうしたらよいか、地方自治制度を勉強したいと考え、当時開設2年目の大学院法学研究科に進学し、三橋先生のご指導の下、修士論文のテーマを「真鶴町まちづくりの条例の検討」に決めました。真鶴町は、私の出身地である湯河原町に隣接する人口1万人にも満たない小さな町です。リゾートマンションが乱立し、豊かな自然はもとより地域のコミュニティまでも破壊されていく状況の中で、これに対応するために、平成5年に当時としてはかなり画期的な内容を持つ「真鶴町まちづくり条例」が制定されました。この条例を題材にして、法令に抵触しない範囲で、地域住民の意見が活かされるまちづくりはどのようにしたらよいかという視点で研究をしました。

(5)研究者は難しいということを自覚し、公務員の道を真剣に模索。

修士論文をまとめる中で、研究者になるのであれば、大胆な、新しい、研究者らしい発想があるべきとの思いに至り、これらが自分には不足しており、研究者を目指すことは難しいと自覚するようになり、公務員の道を真剣に模索するようになりました。

(6)地方自治制度を所管する自治省への興味

地方自治制度に関係する公務員としては都道府県職員や市町村職員があるわけですが、当時、地方分権の旗振り役で、内務省以来の伝統を持ち、我が国の地方自治制度を所管する自治省への興味が募りました。国家公務員Ⅱ種試験(現 一般職試験)を受験し、合格した後、自治省を訪問し、たまたま現在所属している行政課で、業務内容の説明を受け、また、自治省に入省すると地方公共団体でも働くことができるという魅力も感じ、就職先を自治省に決めました。このとき、業務説明をしてくださった担当官が、現在の直属の上司でもあります。

 

次に、自治省に入省後、現在まで、いろいろな仕事をしてきました。主にどのような仕事をしてきたのか、お話したいと思います。

 

 


投稿者 : 事務局 投稿日時: 2018-09-26 10:36:11 (67 ヒット)

平成29年度 静岡大学岳陵会 連携講座 第11

 

日 時  20171218日(月)1425分~1545

会 場  静岡大学 共通教育B501

受講生  80

講 師  眞木 万平 様

  静岡県立静岡商業高等学校 校長

(人文学部12回 昭和55年 英文学科卒)

演 題  「 職業と生きがい 」

       ~退職を迎えて想うこと~

 

 

1 自己紹介

 皆さんこんにちは。ただいまご紹介いただきました、静岡商業高校校長の眞木と申します。今年60歳ということで退職となります。38年間の教員生活を振り返りながら、皆さん方にお伝えすることがあればと思っています。

 

2 学生時代の私

 学生時代にはマンドリンクラブに所属し、指揮者を仰せつかっていました。やはり学生時代にはクラブの存在が非常に大きかったなと思います。そこから派生した交友関係とか下宿での友人などを通じて色々なことを学ぶことができたと思います。 

 3年生を過ぎたころから周りの友人たちがいきなり勉強を始めました。びっくりしました。主に公務員試験の勉強をし始めたんですね。彼らにつられて私も採用試験を目指して勉強を始めたことを思い出しました。

 

3 教職を目指した理由

 私は下田で生まれ育ちましたが、下田は観光が主で、それ以外の産業がなかなか無い。そのため周りで一流企業で働くという姿を見たことがありませんでした。

そんな時に友人の下宿に下田南高校の先生が住んでいらっしゃって、よく遊びに行ったんですけど、そんな時先生がギターを弾いて下さり、部屋には本もたくさんある、そんな姿を見たとき小学校2年生の私はかっこいいなと思ったんです。それが教職を目指した一つの理由なのかなとなんとなく思い出します。

 また、高校時代の恩師の影響もあったのかなとも思います。非常に自由な発想をされる方でした。ものの考え方を教えられたと思います。

 

 4 教師になってからの職歴とそれぞれの現場での想い

 23歳から38年間の教員生活を過ごしてきたわけですが、最初の赴任高は三島北高校でした。ここでは全日制と定時制の二つを担当したのですが、若かったのですね全然苦になりませんでした。特に定時制の生徒達は、昼間働いて夜は学校というきつい中でも本当に真剣に学んでいました。生徒の中には家庭環境が非常に悪い生徒がいたのですが、いつもニコニコ笑っているんです。どうしてこんなに明るく振る舞っていられるんだろうと不思議でした。生徒から学ぶことの非常に多かった職場でした。

 昭和58年に新設校の静岡南高校へ赴任しました。新設校では県内より熱心な教員が集められたこともあり、若手の私は先輩たちの後ろからついていくという雰囲気でした。30歳代のバリバリの先輩達から教わったことは「生徒のため」という姿勢でした。また授業指導についても非常に厳しく指導を受けました。若手が足手まといにならないようにとの配慮だったのです。今考えれば、あの時の厳しい指導があったから今の私があると思います。皆さん方にお伝えしますが、“若い時の苦労は買ってでもしろ”というのは将来必ず生きてきます。これは事実です。

 平成2年には新設10年目の庵原高校へ赴任しました。特に驚いたのは生徒の中に新設校の時の先生方の情熱が残っていたのです。不思議な学校でした。その情熱とは新設の時の校長の情熱を引き継いでいるということを後で知りました。 

 平成10年に文科省の派遣でワシントンDCに行くことになりました。全国から10名程の仲間がいました。ジョージタウン大学で1年間学びました。他に日本人留学生もいたのですが、彼らは非常に勉強をしていて、睡眠時間は3時間といいます。図書館は24時間会館されていて、常に学生がいるそうです。今自分の過ごした学生生活を振り返るとじくじたる思いです。

 平成11年には女子高の静岡城北高校へ赴任しました。女子高には女子高特有の指導がありました。決して生徒を人前で怒ってはいけない、プライドを傷つけてはいけない、叱るのではなく説得しなければいけないということを後で知りました。

 平成24年に再び庵原高校へ赴任しました。ここでは校長という立場でした。来年には清水商業との合併を控えていて、非常に小規模な学校になっていました。翌年には清水桜が丘高校が新設されたのです。清水商業高校は非常に部活が盛んな高校でしたので、よく部活動の応援に行き、魅力的な学校づくりに腐心したものです。商業高校と普通科高校の合併なので、統一性を作っていくのに苦労した記憶があります。

 平成28年からは現在の勤務高の静岡商業高校へと異動しました。県内の商業高校の中心ですが、私は商業の教員ではないのでなかなか解りにくいところもありました。また高校野球連盟の会長も兼務しています。会長として高校野球の開会式で挨拶をするという普段では経験できないこともさせていただきました。また同窓会の皆さんが熱い想いを持っているということにも驚きました。

 

5 印象的な出来事

 城北高校に赴任中の話ですが、当時土曜授業が行われていまして国際科の生徒達は茶道と華道の授業があったんですが清掃の間に2人の生徒がいなくなってしまいました。何をしにいったのかというとパンを買いに行ったんですね。私は非常に頭にきて、みんなが掃除をやっているのに何やってんだと叱っちゃったんです。それで一人の子が非常に抵抗感を持ちまして、周りの子達も彼女に同調したんです。私はこの時、2つのことを考えました。ひとつは、「教員も人なんだ。このままだとお前、嫌いになっちゃうぞ」と言おうか、もうひとつは「私にとってお前は大切な子なんだからちゃんと言うことを聞けよ」と。直前までどっちの言葉をかけるか迷っていました。声に出たのは後者でした。その言葉を聞いて同調していた子達はこう思ったんです。この子が先生にとって大切な存在なら私達も大切な存在なんだと。この事件の後はすごくやりやすくなったことを覚えています。

 

6 教職の喜び

 庵原高校で合併直前に、閉校記念に学校を解放するというイベントが行われ、その中で私は20年ぶりに3年間担任をした英語科の生徒達に授業をしたんです。来たのは20人くらいなんですが、その子達あまりに真剣なんですね。彼らは36歳くらいになっていたんですが授業が始まった瞬間、18歳に戻ってしまったようでした。すごく真剣で圧倒される思いでした。強い視線を感じるんです。その時、クラスがまとまっていたのは、私が素晴らしかったのではなく、子供達が素晴らしかったんだと気づかされました。まさに教師冥利につきると思いました。

 

7 キャリア形成へ

 社会学者の宮台真司がこうおっしゃっています。

“人の役に立ちなさい。人を幸せにできない人は幸せになれない”と。

 

8 おわりに

 仕事での悩みやそれ以外で色々と相談できる友人というのは非常に重要になってくると思います。大切にしてください。

 また優れた人は、地位がどんなに高くなっても常に謙虚でいるということを感じます。私がすごく感じるのは、地位が高くなっても常に謙虚でいてくださいということです。皆さんが将来どんなに偉くなっても常に謙虚な気持ちを忘れないでください。

 良い職業を選んで、充実した人生をお送りください。

 本日はご清聴ありがとうございました。

                                   

 (文責: 岳陵会副会長 河本通正 人文12回 経済卒)


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