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投稿者 : 事務局 投稿日時: 2017-11-27 13:09:40 (15 ヒット)

平成28年度 静岡大学岳陵会 連携講座 第15

 

日 時  2017130日(月)1425分~1550

会 場  静岡大学 人文社会科学部 大講義室

受講生  170

講 師  木下 学   ㈱ベネッセコーポレーション

(人文29回 平成9年 言語文化学科卒)


演 題  「静大卒」キャリア論

      ~「もう一度大学時代に戻りたい」 そんな情けない大人にならないために~

 

 

 みなさんこんにちは。

 さて、本日が最終講義ですので少し振り返りをしたいと思います。15回いかがだったでしょうか。色々な人との出会いがあったと思います。私が第2回で講師をしました時には「半歩現実、半歩未来」というこことで、学ぶことと働くことを考えてみましょうと問いかけをしました。今日は、「静大卒」キャリア論ということで、人生一度きりです、そう考えたときに改めてどう思うかを考えてほしいと思います。

 

はじめにこの写真を見てください。これは私の母校である高校です。私の人生の中でやり直したいと心から思ったのは、中学を卒業して高校に進学する時期でした。私は小学6年生からずっと行きたい公立の進学校がありましたが、高校受験に失敗し、中高一貫の私立進学校に高校から入学しました。当時は本気でやり直したいと思っていましたし、思春期ということもあって周りに感情をぶつけることもありました。講義のレポートなどを拝見していても、皆さんの人生でも、そう思う時期があった、あるという人もいるのかもしれません。

 

大学生になって静岡に来たときは、正直「ゼロ」からのスタートだと思いました。ここからどれだけ人とネットワークが作れるのかということでした。こちらでも、大学時代の写真を用意したのでお目にかけます。いわゆる飲み会もたくさんしましたし、アルバイトもたくさんしました。他のゼミのフィールドワークに参加したり、先生の研究の手伝いをしたりもしました。

 

2回でお話ししたキャリアについて補足すると、私が一番なりたかったのは教師でした。絶対教師になるぞと決意して教育実習にも行きましたし、その傍らで就職活動もして希望した企業から内定をいただくことができました。そういう状況や、教師になる資質があるよと周りから応援されていたこともあって、ひょっとすると夢が叶うかも・・・。という思いを奮い立たせて勉強に励みました。

しかし、いざ教員採用試験の前日に、食あたりになってしまい地元千葉県の教員採用試験を受けることができませんでした。悔しくて、親にも5年間くらい言えませんでした。これも挫折の一つなのかもしれません。ただ、ここで諦めたのなら、そのぐらいの夢ではなかったのか、と思われるかもしれませんが、家族の事情もあっていち早く自立し就職しなければならず、いろんなご縁がある中で、自分で違う道に進もうと決断しました。そこに後悔はありません。

 

ここからが人生の妙だと思うことですが、私は今、高等学校の改革や学力向上のための支援という仕事をしています。データネット業務に携わっており、主に高校への営業や、学校のコンサルティングの仕事をしています。そういった業務に携わる中で、いつかは母校に恩返しができないかと思うようになってきたのですが、昨年11月末に母校の高校に、プライベートではなく、仕事で行く機会に恵まれました。そこでは、懐かしい先生方との再会があり、歳を重ねても、学校に赴けば恩師にお会いできるのは私立ならではの特権なのかもしれないとも思いました。静大のときに教育実習でお世話になった先生に、提出していた書類を見せてくださいました。懐かしく、恥ずかしくなるような書類に対面していたところ、指を指され「木下くん、卒業先の進路に、教師か教育サービス業と書いてあるよ。ある意味、夢をかなえたよね」と言われ、胸がぐっとくる思いがしました。もちろん、そんなことを書いていたこともすっかり忘れて人生を過ごしていましたし、この書面が学校に保管されていた奇跡、先生と再会できた偶然が重なりあわなければ、私はこんな素敵な人生を送っていたのだと思うこともなかったのです。

 

そこで思ったのは、その時は最悪だという気持ちで高校時代を生きていたかもしれないけれど、いつかはいい経験だったのかも、という何かがあるのではということです。

私は回り道をしましたが、こうして小さな夢を叶えることができました。優秀な皆さんですから、今思い描いているちょっと先の夢をきっとかなえることができると思います。

 

ここで、皆さんに渡した付箋に、「自分の人生を振り返って戻りたい時期とその理由」を書いてください。

 

次に、書いた付箋を破ってください。もし嫌な気持ちになったとき、心が鍛えられてくれば今のように切り捨てることができると思います。そんな人生を送ってほしいと思います。

たら・れば、ではなく、一回きりの人生を、一生懸命に生きて「もう一度大学時代に戻りたい」と本気で悔いながら生きるような、情けない大人にならないでもらえたらと思います。

 


 さて、ここからは私が一方的に話すのではなく、岳陵会からの依頼によって、違う形式で行いたいと思います。今日は岳陵会の方々に来ていただいておりますので、皆さんと少し交流形式で進めていきます。

進め方は次のとおりです。


    岳陵会参加者から簡単に自己紹介

    学生たちに伝えたいこと

    学生から質問タイム

 

 

   全体のコーディネーター・企画

   ・木下 学 (人文 29回言語文化)

岳陵会から、

・鈴木 良夫(人文 5回経済) 

・水口 好美(文理16回数学)

・福島 英夫(人文 3回経済) 

・水谷 文一(人文5回経済)

・三宅 純平(人文29回言語文化)

・有賀由紀子(人文28回言語文化)の6名が参加。

6つのグループに分かれ、小グループでのフリートークを行いました。

(年上の人と話すトレーニングの場と考え、対話をすることを目的とする。約15分間)

 

 

では次に、せっかく皆さんとご縁があってこの授業を受講していただきましたので、岳陵会と“つながり”の持つということで、学生歌「われら若人」の合唱です。

皆さんはこの歌を知っていますか。おそらく、入学式の時に混声合唱団が歌ってくれたと思います。今日ここで歌うことで連携講座の思い出と同窓会の親しみや一体感を感じてもらえればと思います。

 

 

(全員で「われら若人」を合唱)

 

 歌詞の背景を考え、特色を考える         肩を組んで歌おう

 

最後に、毎年行っていますが全員で記念写真を撮りたいと思います。

これで今日の講義と今年度の連携講座は終了です。実りある静岡での学生生活になりますよう、心より応援しております。ありがとうございました。

(文責: 有賀由紀子 人文28回 言語文化学科)

 

 


投稿者 : 事務局 投稿日時: 2017-11-24 15:56:38 (13 ヒット)

平成28年度 静岡大学岳陵会 連携講座 第14

 

 

日 時  2017123日(月)1425分~1550

会 場  静岡大学 人文社会科学部 大講義室

受講生  180

講 師  玉置 良美 様  中部電力株式会社 販売カンパニー事業戦略室

(人文41回 平成21年 社会学科卒)

 

演 題  「現代社会の変容とキャリア形成」

 

 

 皆さんこんにちは。今日は、大学時代及び社会人生活の経験から学んだことの中からひとつでも多くのことを伝えたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 

講義に入る前に、いくつか問いかけをさせていただきたいと思います。

皆さん、携帯電話の検索画面を開いて、私「玉置良美」で検索してみてください。

おそらく静岡大学出身、今日の連携講座の講師くらいしか出てこないと思います。FacebookTwitterもやって言いませんから。では次に自分の名前を検索してみてください。どんな情報が出てきましたか?恥ずかしい情報はでていませんか。今後、就職活動をするにあたって採用担当がみても大丈夫な情報だけでしょうか。自分が流した情報がどんな形で残っているかわかりません。ネットの怖さを知ってほしいと思います。

 就職活動するにあたって、黒のリクルートスーツ、黒髪でストレートと変えていかなければいけません。あまり格好よくはないですよね。しかし、就職活動とは社会人になるための準備期間です。採用担当者に、社会人として自分はこういう風に過ごしていきますという意思表示をする機会です。就職活動の時にオンとオフの切り替えができなければ社会人になってもできません。学生時代のうちに切り替えができるようになることが望ましいと思います。

 就職活動するにあたってライバルは誰でしょうか。県内で就職活動するのではあれば県立大学、静岡大学の同級生、Uターン、Iターンの学生でしょうか。東京や関西の学生は意識が高く、就職活動の準備を早くから始めています。勝てる自信がありますか。無い学生さんは、自分を磨く、自分作りをしなくてはいけません。そのタイミングは就職活動が始まってからでは遅いです。今からできることを少しずつ考えてほしいと思います。

 なぜこんな話をしたのかというと、私が就職活動をしている学生に会う機会がたくさんあったからです。4年前には静岡大学に来て、中部電力㈱の企業説明を担当しました。その時感じたことは、静岡大学の学生は話を聞くだけで反応が薄い、真面目に聞くことはできるけれどそれだけという印象です。静岡大学の学生が他の学校に劣っているとは思いませんし、やればできると思います。ただ始める時間が遅い、のんびりしている感じがあります。今日の話を聞いて危機感をもち、早めに動くきっかけになってほしいと思います。

 

 

それでは、本題に入っていきましょう。

 

私は、昭和61年生まれ、現在30歳。人文学部社会学科を卒業して、平成214月から中電電力株式会社で7年間働いています。


大学4年間で力を入れたことは特になく、バイトをしたり、旅行に行ったりと普通の学生生活を送っていました。ただ一つだけ頑張ったことは就職活動です。当時は、大学3年の10月から解禁、1月からエントリーシート提出し面接を行っていました。正式な面接の解禁は4月からでしたので、約6か月かけて準備していました。今年は、3月に就職活動解禁、6月に面接解禁と6か月でやったことを3か月でやらなければならないので大変だと思います。

 

私が就職活動で危機感を持つきっかけとなったのは、大学3年の10月に東京のビックサイトであった就職説明会に参加したことです。私自身は静岡県内での就職を希望していましたので、半分遊びを兼ねての参加でした。しかし、東京の学生は意識が高く、話を聞き終わった後に採用担当者を質問攻めにしていました。私はまだその準備ができていなくて、結構な差がついていることを感じました。自分より準備の進んだ学生を目にし、このままでは負けるなと思ったのがこの10月でした。そこで、自分から動き出し、1月頃から少しずつ内々定をもらうことができ、最終的に中部電力㈱に就職しました。

 

 学生時代やっておけばよかったということは、時間をかけた旅行です。社会人になると時間がとれません。学生時代には時間をかけた旅行をしてほしいと思います。

また、学生の特権としてジャンル・規模にとらわれず企業訪問ができます。行きたい会社に行くだけでなく、その会社のお客様となる会社に行ってみてください。また、ライバルになる会社に行って、どこが強みなのか聞くのもいいと思います。

エクセルやパワーポイントの技術を磨くこともおすすめします。エクセルでの処理が早くできる、資料作成のセンスがあれば、先輩に仕事を頼まれるようになります。そうすることでまわりから信頼され、上司に覚えてもらえるのです。時間がある学生のうちにこの技術を磨いたら、入社後の強みになると思います。

 

 先ほど、1月くらいから少しずつ内定をもらい、最終的に中部電力㈱に入社を決めたと話しましたが、どうして中部電力㈱に入社を決めたのかを話していきたいと思います。

地元は焼津で静岡大学に行き、静岡から出るつもりはありませんでしたので、静岡県内の優良企業を片っ端から受けていました。内定をもらったのは、地元メーカーや、自宅から通える金融機関。それがなぜ中部5県に勤務地があり本社が愛知にある企業にしたのか。初めは自宅から通えるところがいい、やりたいことが決まっていませんでしたので、正直静岡県内であればどんな企業でもよく、色々な業種を受けていました。気持ちを切り替えた理由は、どんな人生を歩みたいか、どんな軸を大切にしていきたいのかを考えたからです。仕事・趣味・生活スタイルはいずれも大事なことです。仕事を選んだ時に、自分のやりたいことができるか、将来子供を産んだ時に育てることができるかどうかという基準で考え、結果中部電力㈱を選びました。

 

ここからは、入社後のキャリア形成について話していきます。

中部電力㈱という会社は、皆さんご存知だと思います。当社には営業部門、技術部門、燃料を調達する部門、人事・総務部など色々な部門があります。

 

入社直後は、お客様の電話応対をしていました。「電気をつけたい」とか「停電の時はどうしたらいいか」といったお客様からの電話の応対です。10年前は、大卒の新入社員でもここから始まりました。しかし今の新入社員はしていません。当時新入社員が担当していたようなマニュアルがあるような電話応対は主に外部委託、非正規社員がやっています。新入社員はもっとイレギュラーな事象の対応をするように変わってきました。最初から即戦力とされています。今の新入社員がどのような仕事をしているのかは、入社3年目くらいの先輩に聞くのがいいと思います。

3~5年目は、人事部で福利厚生の仕事を担当していました。従業員が安心して仕事に専任できるように、社内の人間を客様とみなして仕事をしていました。

現在は、営業部門にもどって、現場から少し後方の仕事。電気がどれだけ売れたのかの取りまとめや分析、電気の売れ行きから経済がどのように回っているのかを分析する仕事、新しい分析ツールの構築などをしています。

 

では、各部門においてどんなキャリアアップをしてきたのかをお話しします。

 

新入社員~3年目の営業所時代。入社してすぐには仕事ができません。初めに2週間の導入研修を受けました。挨拶、お辞儀の仕方から会社の歴史、電気の知識を学びました。学生から社会人へのオンとオフの切り替え、社会人としての心構え、社員としての必要なスキルを身につけていきました。この当時は、まだ経験したことが無ければ先輩に任せることが許される時期でした。

3~5年目の人事部。福利厚生を担当。新しい企画を担当するようになり、例えば社員のニーズを調べ、介護と両立をどうしたら支援できるかを提案したりしました。入社4年目では、新入社員の講師として学生を教える立場に。まだまだそんなレベルではありませんでしたが、自分ができることを教える、知らないことも自分があたかもできるかのように後輩に指導していました。できなくてもできるかのようにふるまわなければならないということを学ぶとともに、集団における自分の立ち位置を知ることができたと思います。

5年目~現在は、再び営業部門で、新しい分析ツールの構築などをしています。社会学科卒業なので、システムに詳しいわけでもありませんが、やることが決まったので知識を後付けでつけていきました。ここでは判断を求められたときの優先順位をつけることができるようになりました。仕事を通じながら学び、ステップアップにつなげることができるようになりました。

入社7年目で、まだまだ学ぶことが多いですが、“立場が人を成長させる”と思っています。今は、先輩の後姿を見ながら学び、後輩二人の指導をしています。

 

将来やりたい仕事が決まっていなかったとしたら、興味あるジャンルに積極的に足を運んでほしいと思います。ネットの情報だけで決めること難いですし、実体験をして納得してから決めないと就職後に後悔すると思います。バイトなどで興味ある仕事を実体験で学ぶことが大切です。

私は、社会人がどのように1週間働いているのか身をもって体験するためにインターンシップで運送会社に行きました。ここで自分の能力が社会に役立たないと実感しました。文系ならば英語ができないと話になりません。日本の企業であっても、お客様が海外ということもあります。私は語学が堪能ではなかったので、こういう会社には就職できないということを実際に足を運んでみてわかりました。

このように、経験しないとわからないことがあるので、会社に行き最近入社した先輩の話を聞くことは大切だと思います。

 

就職先を選んだとしても、すぐにやりたい仕事ができるとは限りません。やりたい仕事があってもその仕事につけなかったときにぜひやってほしいのが、社内での第2第3の就職活動です。どんな会社でも異動というものがあります。恥ずかしがらず、まわりの先輩や、上司、場合によっては人事の人にアピールしていくことです。チャンスは自分でつかまなければいけないと思います。やりたい仕事がやれるようにアピールする、また能力を身につけるということを続けていってほしいと思います。社会に入ってからも学ぶ場、スキルアップする場はありますし、しなければならなりません。与えられた仕事を漠然とするのではなくて、次のステップに上がるために、自分は何を身につけたらいいのかということを考えてほしいと思います。

 

 今回の講義のテーマである“現代社会の変容”と考えたときに、10年前と今では置かれた状況が違っています。決して40代・50代の話が古いわけではなく、学ぶことがたくさんあると思いますが、10年前、20年前の成功体験が今の時代に通用するとは限らないということも知っておいてほしいと思います。

また、キャリア形成を“自分づくり”と置き換えてみますと、社会人になってからもやり続けなければいけないことだと言えると思います。社会人になったらすぐに仕事ができるようになるわけではありません。その時その時求められるスキルを、先輩社員の後姿を見ながらできるようになっていくということを続けていってほしいと思います。

 

最後に、本題から少しそれてしまいますが、皆さんは、親子関係は良好ですか。大学を選ぶときに親と真剣に話ができましたか。是非とも親子関係を見つめなおしてほしいと思います。冒頭にライバルの話をしましたが、逆にいうと味方はだれかということを伝えたかったのです。親は必ず皆さんの味方です。社会人として経験を積んだ先輩でもあります。聞いてみると、今まで20年間見つめてくれた親だからこそのいいアドバイスをくれると思います。是非とも親と話をする機会を設けてほしいと思います。

 

 7年間の社会人生活と、4年間の学生生活で学び得たことを紹介させていただきました。私の話を受け入れられないと思った学生さんもいるかもしれません。受け入れられないと思ったならば、そう思った感情を大切にしてください。感情の裏には何かの理由があると思います。まだ時間もあるし選択肢もたくさんあります。“なぜ”と考える時間を持つことで、社会人になった時きっと役に立つことがあると思います。皆さんがいい就職活動ができ、後悔しない社会人のスタートが切れることを願っています。

これで私の話を終わらせていただきます。ありがとうございました。

 

(文責: 有賀由紀子 人文28回 言語文化学科)

 


投稿者 : 事務局 投稿日時: 2017-11-17 15:15:30 (29 ヒット)

平成28年度 静岡大学岳陵会 連携講座 第13

 

 

日 時  2017116日(月)1425分~1550

会 場  静岡大学 人文社会科学部 大講義室

受講生  180

講 師  大石 守方   

(文理7回 昭和34年 地学卒)

 

演 題  「 学校、寮、同窓会と私の80年のあゆみ 」 

  

只今ご紹介いただきました大石です。私は文理学部の卒業でございます。生まれは昭和11年(1936年)、今年81歳を迎えます。皆さんとは60歳ぐらいの年の差があると思いますから、皆さんのお爺さんぐらいの年齢ということです。私が静岡大学との関わりを持ったのは中学生の時です。昭和27年に中学校でありながら静岡大学の名前をもった静岡大学教育学部付属浜松中学校に入学しました。その後、静岡県立浜松北高校を経て、昭和30年に静岡大学文理学部へ入学しました。静岡大学では地学を専攻し、昭和34年に卒業しました。同年、北海道大学の理学部大学院修士課程へ入り、地質学鉱物学を専攻し、昭和37年に卒業、その後は故郷浜松市の松井溶接工場(のちの松井工業(株))へ就職し、平成13年、65歳で同社を定年退職しました。そして今日まで畑仕事をしながら、たまにはゴルフや旅行等を楽しみながら気ままに過ごしています。

 

今日はこれまでとは少し毛色の違った話をさせていただきます。はじめに、皆さんが現在所属しているのは静岡大学人文社会科学部ですが、この人文社会科学部が今日の姿になるまでに非常に長い年月をかけているわけです。日本の近代的な学制というものは明治5年の学制公布によって誕生したと思います。そして、明治8年に静岡に静岡師範学校が開校されました。これが静岡大学教育学部および静岡大学の前身となるわけです。明治27年に高等学校令が施行され、一高や二高などいわゆるナンバー高校と言われた高等学校が誕生しています。そして、大正12年に22番目の高等学校として静岡高等学校が開校されました。これが静岡大学文理学部の前身となる学校です。また、同年に浜松に浜松高等工業専門学校、現在の静岡大学工学部の前身となる学校も開校されております。当時の高等学校は3年制でしたので、第1回の卒業生が大正15年に卒業しております。当初は2学期制をとっておりましたが、昭和10年に3学期制に変更されております。戦時中の昭和20年6月には静岡大空襲により一部の教室が焼失し、その年の8月15日に終戦を迎えたわけでございます。翌9月には閉鎖されていた学校も授業を再開しております。戦後、昭和22年に学校教育法が施行され、いわゆる六・三・三制の義務教育が開始となりました。昭和23年の一府県一大学制によってこの地にも静岡大学案が浮上し、翌昭和24年に静岡大学が開校されたわけです。この年には旧制静高に最後の学生が入学しておりまして、この時初めて女子が2名入学しております。現在では理系女子学生を「リケジョ」とか呼ぶようですが、当時は「理メチ」、「文メチ」と呼ばれていたようです。静岡大学は静岡高等学校を前身とした文理学部と浜松高等工業専門学校を前身とした工学部、それから県内の師範学校を集めて作られた教育学部の3学部で発足しています。文理学部の名前の由来は英語の「liberal arts」を直訳したものとされていますが、最近ではこの言葉を「基礎教養」と訳されているようです。当時、文理学部の定員は200名でした。そのうち文科が100名、理科が40名、2年間教養を学んだ後に他大学の医学部へ進学する医学部進学コースが20名、同様に浜松の工学部へ進学する工学部進学コースが40名となっていました。その後、昭和26年に静岡県立農科大学が農学部として加わり、ここで初めて4学部がそろったわけです。昭和29年には医学部進学コースが廃止され、文理学部の構成は、人文100名、理科60名、工学部進学コース40名となりました。その当時の授業料は年間6,000円でその後9,000円に値上げされております。昭和34年には工学部進学コースが廃止され、定員が人文90名、理科60名となっております。ただし、その後の昭和35年から昭和41年まで臨時的に工学部生100名を1年間受け入れしています。昭和37年から38年にかけて文教審による文理学部廃止構想が浮上し、昭和40年には静岡大学においても文理学部を廃止し、人文学部(人文学科、法経学科)、理学部(数学、化学、物理、生物の4学科)、教養学部を新設することになります。なお、私が在籍していた地学科は廃止され、自由選択科目の一つとして地学履修コースが設定され、昭和50年にこの地学履修コースは地球科学科となっています。昭和42年には教養学部校舎が完成し、こちらへ移転しております。また、同年に片山寮も完成し、他の寮から教養学部1・2年生の一部が移転しています。昭和47年には文理学部の最後の学生が卒業しています。昭和48年に旧制静高50周年記念、翌昭和49年には浜松医大が開校されております。昭和53年に人文学部法経学科は法学科と経済学科に分かれ、昭和57年には社会学科が増設されています。昭和60年に大学跡地に城北公園が完成し、その後、社会学科、人文学科が社会学科と言語文化学科になっています。平成4年には旧制静高の70周年記念大会が開催されています。平成7年には教養学部が廃止となり、翌平成8年に工学部に情報学部が新設され、同時に工業短大、法経短大が廃止されています。また、理学部地球科学科と生物学科を合わせて生物地球環境科学科という名前の学科になっています。そして、平成11年、静岡大学の創立50周年にあたり、記念式典、祝賀会、講演会、シンポジウムが開催され、静岡大学の50年通史、写真集が刊行されております。前列の机に当時の資料を用意しておりますので興味のある方はご覧になってください。平成15年には国立大学法施行に伴い、翌平成16年に静岡大学国立大学法人となっております。そして、平成24年に人文学部が人文社会科学部になり、現在に至っております。今、皆さんが在籍している学部はこのような長い歩みの末に出来たものです。

 

つぎに当時の学生寮の話をしたいと思います。静岡高等学校時代から文理学部がこちらに移転し、無くなるまで仰秀寮という寮がありました。この寮は私にとっては非常に思い出深く、そこで過ごした4年間はまたとない経験であったと思います。大正12年に学校が出来た時にはまだ寮は完成しておりませんでしたが、当時の1期生が寮歌「地のさざめごと」と「弥生の東雲」を既に作っておりました。今では考えられないことだったと思います。翌大正13年に5棟からなる寮が開寮し、1年生と2年生が入寮しています。そして、大正14年には寮のそれぞれの棟ごとに寮名と寮色を決めています。北から不二寮(白色)、穆寮(茶色)、映寮(緑色)、魁寮(黒色)、悟寮(赤色)と定めています。昭和6年頃の食費は1日45銭だったものが、その後時代を反映し、40銭、35銭へと値下げされているようです。そして昭和11年、私が生まれた年ですが、寮名を仰秀寮と決定しています。それまでは寮名を静高自治寮と名乗っていたようです。昭和12年当時の寮費は月1.1円から1.2円、経常費が月2.5円から2.8円とされていますが、これは食費別のようです。そして昭和14年には寮旗が制定されております。そして昭和17年には中島屋旅館の一部を借用し、6番目の寮「真寮」を新設しております。これは1年生200名が全寮制となったことにより、行き場を失った2、3年生のための寮として臨時的に設けられたようです。昭和18年、戦争が激化してくると、自治寮が解散となり、不二寮を第一寮へ改名しています。昭和20年の静岡大空襲により悟寮が消失し、六寮(真寮)も事情により返還することになり、その後8月の終戦を迎えたわけです。翌9月には寮も授業も再開され、12月には旧の寮名を復活しております。その年の12月から翌年1月末まで休暇のために閉寮されております。終戦の年から魁寮の1階10室に教官家族5世帯が入居したため、寮の定員が4寮で140名となり、一時3人部屋となったこともありました。昭和24年に新制静岡大学が開校され、1回生70余名が入寮しております。昭和25年には戦時中に焼失した悟寮が再建されましたが、一時、教官の研究室と使用されていたため、寮としては使用できませんでした。そのため、昭和27年に食堂の北側に新しい悟寮を建設しています。ただし、当時は資材不足で不良資材を使ったためにあまり頑丈ではなく、いわゆる「ストーム」は禁止されました。そして昭和42年に片山寮が完成しています。片山寮は男子定員が288名、女子定員が228名で静大生全員を対象とした寮でした。仰秀寮からは教養部の学生約90名が移りました。昭和44年には仰秀寮生全員が片山寮そして第二新寮へ移転し、無人となった大岩は廃寮となりました。第二新寮は雄萠寮と称し、男子定員276名でやはり全静大生を対象とした寮として使われております。昭和45年には寮全体が解体され、昭和60年に跡地に城北公園が完成しております。そして平成3年には旧制静高同窓会と共同で寮の跡地に歌碑(地のさざめごと)を建て、いろいろな行事が催されました。ここまでが仰秀寮の歩みになります。なお、人文棟1階の玄関入口に旧制静高の模型が展示してあり、先程の仰秀寮もありますので、ぜひご覧いただきたいと思います。

 

つぎに同窓会の話をしたいと思います。同窓会がどのような活動をしてきたかと申しますと、旧制静岡高等学校の同窓会は、大正15年に卒業した第1期生によって組織されました。そして平成25年に設立90年を機に全員高齢を理由に解散されています。静岡大学文理学部の同窓会も同様に昭和28年卒業の第1期生によって組織されました。昭和37年には第10回卒業生を含む名簿を初めて発行しています。翌昭和38年からは同窓会会報も発行されるようになり、昭和43年に初めて文理学部生全員の名簿を発行しております。これは文理学部が人文学部と理学部への改組があったことをきっかけとして文理学部の卒業生全員を対象として名簿を作成したものです。学部の改組により同窓会の名前も静岡大学文理・人文学部同窓会へ変更しました。また、理学部は独自に同窓会を創設しましたが、文理学部の理科生はそのまま文理・人文学部同窓会に残っています。そして文理・人文学部の初めての同窓会が昭和47年に開催されています。昭和54年、それまで経費等の関係で卒業生全員へ総会案内を出すことができませんでしたが、この年初めて全員へ通知しました。また、昭和55年には全員へ会報も送付しております。そして旧制静高時代から仰秀寮の事務を担当され、この同窓会の運営にもお手伝いしていただいた茂木さんという女性がおりましたが、彼女が昭和60年に退職されたときに「はげます会」を開催いたしました。残念ながら、昨年お亡くなりになりました。昭和62年には寮史「花時うたうべし」及び寮生名簿を出版しています。また、昭和63年には静岡支部が初めて設立されています。平成元年には開学40周年の記念行事が行われ、この年に同窓会初代会長である小西会長から杉田会長へバトンタッチされています。平成3年には、先ほども触れましたが、旧制静高同窓会との共同作業により旧大岩校舎跡地に歌碑“地のさざめごと”を設置しております。この時に完成記念全寮コンパ、除幕式と同時に旧制静高70周年記念大会が行われています。また、同窓会機関紙「岳」の年2回の発行と名簿の4年に1回の発行が決められています。それから平成5年に初めて終身会費制が導入され、新入生は入学時に会費をお支払いいただくことになり、それまで苦しかった財政の運営も確立されてきました。平成9年に大岩キャンパスの模型を製作しました。平成11年には大学50周年記念文集「大岩発大谷へ」及び「静岡大学50年」通史、写真集を刊行しております。平成14年に旧制静高創立80周年記念大会が行われ、平成15年には文理・人文学部同窓会設立50周年記念総会が開催されています。平成16年に静岡大学全学同窓会が設立され、名簿が発行されています。平成19年に旧制静高85周年記念大会が開催されています。そして、平成21年に「静岡大学文理・人文学部同窓会寄附講座」が特別講座として開講されており、現在は連携講座と名前を変えて継続して行われております。その間の平成24年には人文学部が人文社会科学部へ名称を変えたため、同窓会の名称も「岳陵会」へ変更しております。これは学部の名称が変わるたびに同窓会名を変えるのは適当ではないとの判断によるものです。

 

つぎに当時の学生生活についてお話したいと思います。先ほど申しましたように旧制静岡高等学校は大正12年に開校いたしました。当時の合格者は200名でまだ寮がなかったため、全員下宿生活を余儀なくされたようです。特に強調しておきたいのはこの1期生がまだ寮が出来ていないにも関わらず寮歌を作ったことです。これは当時の学生が如何に寮に対する期待感が強かったかを物語っています。寮歌については後程あらためて紹介いたします。開校の翌年の大正13年に寮が完成し、1年生134名、2年生22名の合計156名が入寮したそうです。開寮当時は生活すべてが兵営式で、6時起床、22時点検、24時消灯で22時の点検前に寝る者は点検前就寝届けを提出する必要があったそうです。朝食7時、昼食12時、夕食17時と決められていました。大正15年には自治寮となり、静高自治寮と名乗っていました。当時の寮費は1850銭ですべて込みだったようです。当時の学生は学帽にマント、朴歯の下駄、腰に手拭いといういでたちで街を歩いていました。この頃の寮の行事は、各種コンパ、ストーム、ロンド、全寮旅行、寮祭等様々な行事が行われていました。コンパは全寮形式の新入生歓迎コンパや卒業生送別コンパのほかいろいろなグループでも行われていました。ストームとはパンツ1枚の裸で肩を組み行列を作り寮の廊下を足を踏み鳴らして歌や掛け声で行進していくと迎える側はバケツや洗面器などで水を頭からかけて迎えるという行事です。新入生歓迎ストーム、返礼ストーム、街へ繰り出す街ストーム等いろいろな場所でストームが行われたようです。ただ、街ストームだけは裸でやるわけにはいかなかったようで、1階の展示室に当時の写真がありますが着衣していたようです。ロンドとは肩を組み円陣を組んで寮歌やノーエ節などを唄いながら、足を上げ下げしながら、特にファイアーを中心に回るものです。このような行事は戦前、戦後を通じてほぼ変わらない形で仰秀寮が無くなるまで続いていました。また、行事ではありませんが、開寮時から終寮時まで続いた独自の現象を紹介します。新入寮生が「暴風雨警報注意」の張り紙を見て不思議に思っていました。夜も更けた頃、窓の外で雨と思われる音が数秒から10秒ぐらい続きました。これは「寮雨」と称して伝統的に続いたものです。ちなみに2階の住人には関係ありません。真相は皆さんのご想像にお任せします。その後、昭和に入り、軍国主義に走る政治の動きは徐々に学校、寮にも影響が及んで来ました。学生運動への弾圧も次第に激しくなりました。でもまだ、マント、下駄、手拭いのいでたち、ストーム、寮歌の高唱等は許されており、市民も学生には非常に好意的であったようです。昭和11年、私の生まれた年ですが、静高自治寮から仰秀寮へと名前を変え、仰秀寮時代の幕開けを迎えることになります。しかし、昭和13年には国家総動員法が施行され、各種の統制が厳しくなり、軍事体制へまっしぐらに進み始めました。学徒動員も始まり、多くの学生が様々な工場等へ働きに行くことになりました。配属将校(軍人)による戦時体制や様々な統制の中でも寮の伝統的な行事や生活は細々と続けておりました。昭和15年の静岡大火災により静岡市内の相当部分が焼失し、焼け野原となりました。この時、学生はボランティアとして炊出しや交通整理、情報収集等市民の為に働いたそうです。また、3年間の学習期間が2年半に短縮され、昭和16年には1年生の全寮制が施行されました。翌昭和17年には民間の建物(中島屋旅館)の一部を借りて「真寮」が開寮となり、2、3年生が入寮しています。昭和18年頃になるとさらに軍事色が強まり、学校への直接指導による24時間教育、軍事教練的行事への参加の強要、書物・出版物の検閲が強化されました。そして遂に自治寮としての仰秀寮が壊され、学校の管理下に置かれました。映寮、悟寮等の寮名が廃止され、1寮から5寮、真寮は6寮とされ、1年生全員はクラス別、五十音順に入室させられました。寮生以外の寮への出入り禁止やマント・下駄も廃止となり、国民服、国民帽、ゲートルで軍事訓練や勤労動員に狩り出されました。文科系学生の徴兵猶予廃止により第1回の学徒出陣も始まりました。昭和20年の爆撃で悟寮が焼失し、真寮からの立退きも迫られて、廃寮となりました。そして8月15日に終戦を迎えました。しかし、9月には授業も寮も再開され、各寮名も復活し、戦後の新しい仰秀寮がスタートしました。そして翌昭和21年2月に再建のスタートコンパが行われました。相変わらず食料、燃料不足で調達に苦労していました。学生はリヤカーを引いて遠くは磐田方面まで買出しに行き、ヤミ物資の取締まりが厳しかったため、帰り道は駐在所を避け、遠回りして運んだようです。昭和23年には旧制最後の学生が入学し、翌24年には新制静大文理学部の1期生が入学しています。昭和27年に悟寮が食堂北側に再建され、部屋は以前の和室から2段ベッドの2人部屋になっていました。資材不足により古い材料を使って建てられていたため、悟寮でのストームは禁止されました。当時、学生は経済的に皆貧しく、奨学金は月1,500円程度、バイトの家庭教師は週2~3回で1,000円位、他の肉体労働のバイトもやりながら暮らしていました。食糧事情も相変わらず悪く、夕食は丼ぶり飯1杯と一汁一菜、昼食はさつまいも半分とかジャガイモ1個等非常に貧しいものでしたが、昭和25年頃になってやっとコッペパン1個又はうどん1杯(具のないかけうどん)や肉の見えないカレーライス等が出るようになりました。そのため、学生達は夜食としてコッフェンを頻繁に行っていました。コッフェンとは、実家が農家の学生が実家から調達した米を使って飯ごうで米を炊き、醤油をかけて皆で食したもので、他に玉子とかマグロの缶詰は貴重品で滅多にお目にかかれなかったようです。当時、寮の廊下には電熱器が1台設置されており、それを使ってご飯を炊いたり、洗面器を鍋替わりにして味噌汁を作ったようです。しかし、停電も多く、電熱器のニクロム線がよく切れるなど苦労が多かったようです。当時、魁寮の南側に「ハイハイ」というそば屋があったそうで、学生が窓から「オーイ」と呼ぶと「ハイハイ」と答えるのでそのように呼ばれていたようです。かけそばを注文してネギとそば湯をたっぷりと付けてもらい、腹を膨らませていたようです。また、近所のおでん屋や浅間神社横に並んでいた屋台などを補食の場として利用していました。入浴は寮の風呂を使い、15時から16時半の間は魁寮1階に入居していた教官の家族、そして、16時半以降が寮生と教官が利用する時間で、そこでは寮生と教官との裸のつき合いが出来ていたようです。夜は部屋で勉強することはもちろんですが、若いなりに街へ遊びに出かけることも多々ありました。ダンスホールの「カイラク」とか「マル」は18時前に入ると学生は無料で、中で知り合ったメッチェンに帰りにラーメンを奢ってもらうなど学生の特権をフルに活用した遊びをしていたようです。映画は駅南地区の3本立ての安い映画館を利用していました。みかん狩りは仰秀寮の伝統的な行事で賎機山へ数人で出掛けました。農家の人たちは学生には比較的寛容で学生を脅かしたり、追いかけたりはしましたが、捕まえることはほとんどありませんでした。みかん畑で採って食べたり、ポケットに入るくらいは大目にみてくれていた様ですが、中にはたまにリュックサック一杯にみかんを採って実家へ送るという猛者も居たそうですが、そのような悪質な学生は捕まってしまうこともあったようです。帰寮後はコッフェンやダべリング、勉強等で費やし、朝の4時に鳴る臨済寺の鐘(寝忘れの鐘と呼ばれていた)を聞いてやっと就寝という様な生活でした。2階の部屋でダべリングした後に自分の部屋に帰ろうとして窓から外へ踏み出した者がいたようですが、幸い怪我はなかったようです。2階から落ちるのは人ではなく、寮雨が相変わらず続いていた様です。当時、学生自治会は全学連に加盟しており、学内の思想的傾向は革新的傾向が強くなってきました。そこで起こった問題の一つが選挙権です。自治省通達により寮生の選挙権は現住地の静岡市には無く、実家の住所地にあるという、実質的に寮生の選挙権を奪うという暴挙に出ました。寮生は強い反対運動を起こし、最終的には裁判で勝訴しました。また、昭和26年のメーデーでは寮生2名が、静岡県公安条例違反、公務執行妨害で現行犯逮捕されました。1名は不起訴となりましたが、1名は起訴となりました。1審では無罪、検察上告の2審では上告棄却、最高裁では免訴となり、実質無罪を勝ち取りました。この2件ともに学校側の教官による多大な支援があったとのことです。この頃、法経関係の教授が不足しており、学生たちが自ら選んだ人物を教授に迎えるため、相手の自宅まで交渉・お願いに伺ったそうです。そして、昭和28年には文理学部の第1期生が卒業しました。寮史ではこの時期(昭和24年~28年)を新制の創生期と位置付けています。次の昭和29年から34年頃までを定着・安定期と位置付けています。私が入学、入寮したのは昭和30年4月ですのでまさにこの時期になるわけです。寮では映寮第4室に入り、4年生で生物学専攻の鈴木先輩と同室になりました。私が入学した当時の受験料は400円、入学金も400円、授業料は年6,000円でこの後昭和32年度から9,000円に値上げされています。寮費は食費が1日60円で経常費含めて月2,000円でした。収入面では奨学金が月2,000円、昭和32年度から3,000円になっています。この奨学金とバイトで収入のすべてを賄っていました。私は入寮してすぐにバイト探しを始めましたが、幸いなことに寮の4年生の先輩がそれまで自分がやっていたバイトを譲ってくれました。苦労せずに収入源を確保できたのはラッキーでやはり寮のおかげだと思ってます。競輪場のバイトも先輩の紹介で始めました。日給は最初150円位でしたが、年々昇給し300円から350円位になるため、先輩の名前で出勤し、最初から300円位貰った覚えがあります。お金の無い時は他人のコッフェンをあてにしたりしながら、バイトでお金が入ればピースを吸って蝶屋でトンカツを食べてボンという喫茶店でコーヒーを飲み、名曲を楽しむことが最高の贅沢でした。他にはヨッチャン、竹の家、そば屋のハイハイ、浅間の屋台等の飲食店やカイラク、マルというダンスホール、3本立ての安い映画館等学生・寮生の遊ぶところも増えてきました。新入生歓迎コンパに始まる各種コンパ、ストーム、ロンド等の伝統的行事は忠実に学生によって受け継がれ、続いていました。ソフトボール、野球、ピンポン、バレーの対寮マッチでは優勝チームのみ夕食にハムエッグがつけられました。寮は基本的に女性の出入り禁止でしたが、女学生のバイトによるクリーニングというより当時では洗濯屋さんという表現が適当な女性の出入りは許されており、数少ない例でした。クリーニングや洗濯をもじって「クリメチ」とか「タクメチ」と呼んでいました。この頃、教育行政の分野で近代化・民主化に反する動きが活発化してきました。教育委員の任命制、教員の勤務評定、教科書の検閲等で、それに対する反対運動が起こり、自治会、寮生ともども参加し、県庁への座り込み等の抗議活動を続けました。また、寮に対しても入寮選考に対する学校側の介入が行われました。元来、入寮選考は寮生による入寮選考委員会が入試時に面接し、収入、生活費、出身地、家族等の情報を聞き取り入寮順位を決めており、入試合格者に合格通知と共に入寮許可証を送付していました。寮割り・部屋割りも選考委員会が決定していました。学校側の主張は、寮の自治は認めるが、国有財産である建物に入居する者を学生が選ぶのはおかしいというものでした。これに対し寮側もいろいろ反論・抗議しました。交渉の結果、寮はあくまでも学生主体である、参加者は正式な機関の代表として認める、選考の内容について学部側は触れない、選考については一層慎重にあたる、という内容で決着しました。法科の学生による模擬裁判が初めて行われたのもこの頃、昭和30年頃だったと思います。昭和32年の1期に私も寮委員長をやらせていただきました。昭和32年から33年はすべてが伝統的行事の継承で


投稿者 : 事務局 投稿日時: 2017-11-13 16:55:39 (23 ヒット)

平成28年度 静岡大学岳陵会 連携講座 第12

 

 

日 時  2017110日(火)1425分~1550

会 場  静岡大学 人文社会科学部 大講義室

受講生  180

講 師  杉原 啓介 様  静岡県庁 くらし・環境部 建築住宅局 公営住宅課

(人文16回 昭和59年 経済学科卒)

 

演 題  「 公務労働の世界 ~現代社会の変容とキャリア形成~ 」 

 

 

わたしは、昭和59年に静岡大学を卒業し、静岡県庁に入庁しました。今日は、地方公務員の実態というか、平凡な地方公務員とはどういうものかを知っていただいて、皆さんの職業選択の助けになれればいいと思っています。

この中で公務員を職業の選択肢として考えている方はいますか。(会場から挙手を求める。)

静岡県出身の方はどれくらいいますか(会場から挙手を求める。)

静岡県庁と静岡市、浜松市の政令市は、大体5月上旬に試験日程が発表され、5月末ごろが応募の締め切り、インターネットでも申し込みができます。ただし、試験日程が重なるため、県と県内の政令市とは両方受験することはできません。

県内の他の市町とは併願が可能かと思います。

 

1 静岡県の概要

私は、中堅の公務員で。ごくごく普通の公務員として歩んできています。どのような仕事をしてきたかをお話しする前に、静岡県の宣伝をさせてください。

 静岡県は、人口は、約370万人、県民所得、製品出荷額県内総生産、いろいろな分野で全国順位5位以内、少なくとも10位以内に入っている県です。

今の川勝知事が「日本一」を見つけようということで、県庁内で見つける取り組みをしています。2輪車の輸出、ピアノ出荷額、医療機器生産、自然環境では、富士山、柿田川の湧水量、とかが一位ですという宣伝をしています。

また、「都」づくりということを常に言っていて、「食の都、茶の都、花の都、森林(もり)の都、水の都、づくりに取り組んでいます。

今、県で一番、悩んでいることは、国もそうでしょうけれども、人口減少と少子化で、国力、県の力を削ぐ要因のひとつとなっていて、既に日本は、人口減少の局面に入っています。予測よりも加速しているのではないかと思っており、本県は昨年の10月現在で、人口368万人位です。ここが一番問題ですが、団体別では人口減少は北海道が1位、静岡県は6,206人の減少、全国では5位の減少県となっています。前年まで2年連続ワースト2位、現在はそれを脱してワースト5位ですが、人口減少は、非常に悩んでいるところです。

 また、どの県も総合計画というものを立てており、本県でも、計画を立て、「富国有徳」とか、「住んでよし 訪れてよし」、「」生んでよし 育ててよし」、「学んでよし 働いてよし」というようなキャッチフレーズを企画部門が考えて、本県の魅力を何とか皆さんに伝えようと取り組んでいます。

 

2 公務員の仕事

  地方公務員の普通の仕事ということを皆さんにお伝えすることが本日の主題ですから、

私が歩んできた道をずっと話していきます。 

 

1) 福祉事務所       ・・・生活保護担当

入庁して、まず、福祉部門の生活保護の仕事を担当しました。

生活保護というとどのようなイメージを持っていますか?(学生を指名→回答を求める。) 

生活保護とは、生活に困っている方を救うための制度となります。憲法第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」という「生存権」を保証する制度です。

国民の権利は生存権の他に何があるでしょうか。(学生を指名→回答を求める。)

教育を受ける権利、参政権のほか、職業を選ぶ自由とか裁判を受ける権利もあります。

一方で国民の義務は何があるでしょうか。(学生を指名→回答を求める。)

納税、勤労、教育を受けさせる義務があります。

生存権を保証する生活保護の担当の主な仕事は、生活保護を申請する方と面談し、生活保護が必要かの調査と生活保護を受けている人の訪問、相談を受け、保護費、生活扶助や教育扶助、医療扶助を支給する仕事をします。

、生活保護には悪いイメージがあります。飛行機で東京まで医療を受けに行く、刑務所に入っていても生活保護を受給など、不正受給の報道もされています。

生活保護というものを誤解しないように申し上げておきたいのですが、世の中には生活保護の水準以下で暮らしている人が大勢います。担当者の中には、生活保護を辞退させることを仕事としている行政マンもいますが、私は生活保護の基準以下で、我慢して生活する必要はない、生活保護は皆さんの権利ですよ、と伝えるようにしていました。

生活保護の受給者は、私が担当していた当時、静岡県の生活保護率で3パーミリ程度でしたが、今生活保護率が一番高い県で3パーセントを超えている状況になっています。静岡県がそれほど豊かな県かといえばそうではなくて、我慢して暮らしている方が多いという印象を持っています。

 

生活保護では受給者の自立を目指すのですが、非常に難しいです。障害を持っていて働けない方の自立、就労支援ということがなかなかできないことが現実です。ただ、生活保護を受けていても生きがいを持って生きる、社会に出て、消費をして、自主的な自律的な生活をおくれるよう手助けすることも生活保護の役割だと思いました。

生活保護の担当の時の一番の思い出は、やはり不正受給の問題で、年金を受け取っていても行政機関が把握せずに保護費を余分に払ってしまっていたことが5人位ありました。なぜそのようなことが起きるのかというと、当人たちの問題ではなく、同じ行政機関同士で情報交換があまり進んでいないからです。また、担当者が新しい目で保護を受けている方を見ようとしないことも原因でした。私が昭和30年代まで遡って受診記録を調べて、年金を受給させることができた場合もありましたし、調べたら既に受けとっていた場合も5例ほどありました。

(行政機関同士の情報の共有としては)今の世の中では、マイナンバーというものもこの7月から始まるようです。私の小さいころから、国がずっと導入しようとしている制度で、一番最初は、グリーンカード、国民総背番号制、近いところでは住基カード、住民基本台帳法に基づく住基番号というものがあります。皆さんも住基番号を持っているのですが、国民の経済とか収入を把握したいという思いは国は強く持っています。行政マンとしてもそれが活用できれば非常に便利だと思っています。ただし、元々は、税金、年金、貯金を一元管理したい、無記名の国債などには課税できないという悩みを国が持っており、それを解消するために推し進めている制度だとも思っています。

 

(2) 情報管理課       ・・・企画担当、島田市役所出向

次の転勤で、情報管理課に行きました。これは県庁のコンピューター、電算処理を担当する部門です。

皆さんのなかでパソコンを使っていると思いますけれども、パソコンを使って研究、日常の大学の学問、学習の中で使っている方はいますか?どんなソフトを使いますか?(学生を指名→回答を求める。 ・・ワード、パワーポイント等)

エクセルを使ってる方は?データベースソフトはあまりいないですか?パソコンを使わなくてはならない場合が多いので、とりあえず学生の時には、公務員試験には全く関係ないですが、ワープロソフト、表計算ソフトは、県庁、市役所に入っても、どの会社に入っても必須でしょう。また、データベースソフトを経験しておいた方がよいです。パワーポイントは非常に簡単なソフトなので、勉強しなくてもできると思います。進むとCAD、イラストレーター、画像ソフトを使える職員もいます。

私の世界を広げてくれたソフトは、データベースソフトで、今、私が担当している公営住宅の仕事の3万件以上のデータの分析・処理では、表計算ソフトでは、限界がある部分が多いので、若いうちにいろいろなソフトに触れておくのも呑み込みが早いのでよいでしょう。

情報管理課での仕事ですが、各部門から申請されてくるシステム開発の内容の資料をまとめる仕事とかをやりましたが、大型コンピュータの知識は皆無でついていけず、役立たずの社員として2年間を過ごしてしまいました。

自分でシステムの開発に携わったことはないのですが、ここで得たことは、論理的な考えの図式化です。よくフローチャートというのですが、判断があって、条件により処理が分かれる、「YES」だとこう処理し、「NO」の場合はこうというように図示します。今やっている仕事を処理していくのに、条件によって処理を変えていくということは、どんな仕事でも、コンピュータ処理であってもなくても発生します。図式化して物を考えるということを学びました。

一番に辛かったことは、オンライン障害の発生時です。今、ATMでもなんでも、世の中はいろいろなことをオンラインで処理しています。何が原因で障害が発生したのか、原因がハードなのか、ソフトなのか、まったく分からなくても、すぐ復旧しなければオンライン業務に差し支えます。センターコンソール(中央監視装置)から出力されるエラーメッセージをみて対応するのですが、管理をしている部門としては辛かった覚えがあります。

そのあと1年、島田市役所に出向をしております。1年間のなかで、固定資産税の電算処理、軽自動車税の電算処理、プログラムを組むことと、財務会計システムの企画などをやりました。

 

3) 計量検定所       ・・・総務、計量器の検査

 その次に行ったのが計量検定所で、ここでは総務課と計量器の検査を担当しました。

 計量検査をやっていると知っている人はいますか?(会場から挙手を求める。)

タクシーのメーターで、工場に行ってメーターを検査したり、実際に走らせて検査をしています。ほかには水銀製の体温計の検査、ガスメーター、血圧系の検査もやりました。実際に測ってみて正しく測ることができるか間違っていないかを検査するのが計量検定所の仕事でした。

ここでの疑問は全数調査でした。体温計なら1本、1本、見て検査していくのですが、なぜ全数調査をやらなければいけないのかが非常に疑問で、工場の品質管理というのは、5%の抽出検査とかでやっているはずで、全数調査は非近代的な方法のはずですが、検査はすべて全数調査でやっていました。

多分、この計量検定というものは、計量法という法律に基づいて行っているのですが、過去の遺物なのかもしれません。戦後、秤をごまかせば儲かる商人がいた、それを取り締まる、秤というものは太閤検地の時代から国家にとって非常に大切なものですから、測るということを国家が保証するために、計量検査があるのだと思います。

 

(4) 財務事務所       ・・・自動車税担当、不動産取得税担当

 次に行ったところが、財務事務所で、事務職が良くいく所です。やはり国も県でも主な収入は税金です。それを徴収する、課税するところが財務事務所です。

ここで質問をします。

今、国の税収はいくらくらいだと思いますか?(学生を指名→回答を求める。)

50数兆、60兆円は行っていないと思います。

では、国家予算はどのくらいだと思いますか?(学生を指名→回答を求める。)

来年の予算で約100兆位、100百兆円をちょっと欠けるかも知れません。

歳入(税収)が50数兆で国家予算が100兆円ということは、県庁もそういう状況ですが、国の未来がどうかるのかなというのが公務員としても私の感覚です。

どんなに国の借金があっても、かなりの部分を日銀が国債引き受けをしているので心配ないと主張する学者がいるのですが、今、国の借金はいくら位あるか知っていますか?(学生を指名→回答を求める。)

国と地方と併せて1,200兆円、国債発行残高で800兆円を超えて、借入金を含めると1,000兆円を超えています。新聞報道で見たことがある人もいるでしょうが、借金大国と言われているギリシャ、イタリアよりも多いといわれています。家計で言うと600万円の年収の世帯が、1億円の借金をしている状況であり、静岡県も結構借金があるのですが、国の未来はどうなるのかという感覚が私には強くあります。借金の問題は皆さんへのツケとなって返ってきます。

多分、国債が最初に始まったのは、昭和40年代の建設国債位からかもしれません。その後、ここまで国債残高が増えたのは、オイルショック後の赤字国債を、当時の福田首相、大蔵大臣だったかもしれませんが、「劇薬を使います。」と言って始めた赤字国債が、ここまで続いていることが今の現状です。

最後に県の借金について話をしますが話を先に進めます。

財務事務所では自動車税を担当し、その後、不動産取得税を担当しました。

当時の公務員の徴税は、私から言わせると旧態依然としていて、訪問徴収が特に多かったです。行って「今日払えますか?」という徴収が多いのです。私はあまり行ったことはありませんでした。銀行でも消費者金融でも訪問徴収という非合理なことはしないはずで、私が出張する際は、近隣の商店で相手方の電話番号を伺うとか、相手方との接触手段を調べるために出張しました。出張が少なくて徴収できるのという意見もありましたが、私の徴収率は県下の自動車税の地区徴収率ではトップだったはずです。

その後、不動産取得税、県にはいろいろな税金があり、主には個人県民税や法人県民税が大きい割合を占めるのですが、その中で不動産取得税を担当しました。

財務事務所での思い出は、徴収できない人からは取れないということです。税金を取ろうとして行くと生活に困窮する人がいる場合があります。債権者としては普通やらないのですが、「破産しなさい。」「消費者金融に右から左にお金を返すだけがあなたの人生ではないでしょう。」と言って、破産申請書を書いてあげたのですが、消費者金融からは破産申請したら裁判で訴えてやるなどと脅されるわけです。その際、徴税吏員の私に相談をしてくるので、消費者金融に私から電話し、「国のガイドラインで、破産申請した者への督促は控えるようにと言われているのに督促をするなら、営業停止をされたいのか。」と伝えたこともありました。上司に徴税吏員として度を過ぎていると言われましたが、地方公務員は、人々の幸せのために生きるものですから、破産は債務者の権利なので、権利を教えてあげるべきだと思っています。今も家賃の滞納整理をやっていて、破産を進めることもたまにはあります。

財務事務所での他の思い出は、時効についてです。公務員の仕事では債権を管理することも多いので、時効に対する感覚が多少必要になります。職員の中には、本人がいなかったので、子供から徴収して時効を止めたといった者も居りましたが、時効は止まりません。そのような知識は法律を勉強する中でやると思いますが、公務員は法令に基づいて、県では条例に基づいて仕事をするので、公務員が持っている権力の根拠は何かという勉強をどの部署に行っても始めるわけです。学生の時に民法を、就職をしてからでもいいですが、民法が非常に大切だということを感じます。経済では、簿記、公務員は単式簿記ですが、民間企業はすべて複式簿記、財務諸表が基礎ですので、複式簿記を学んでおけば新しい世界、見方ができると思います。

あと、税金についてです。消費税についてこれは間接税なんですが、消費税をアップするときに、将来の社会福祉のために使うのだと言っておりますので、ここから目的税の話をします。

目的税とは何か知っている方はいますか?(学生を指名→回答を求める。)

目的税とは使途を決めてかける税金です。静岡県では森林税をかけてるかと思います。あと狩猟税なども目的税なのですが、私見ですが、目的税というのはまやかしです。消費税をアップした分をすべて社会福祉のために使うのなら目的を達成されるのでしょうが、増収分をすべて基金にしなければ目的を果たせません。

民間企業では「この収入はこれに使う。」という考えはしません。全体の収益はこれ、支出はこれという経理をしています。目的税は国民、県民を説得するために使われる名称なのです。例えば年金は、過去は、「年金は世代と世代の助け合い」といい、6人で1人の高齢者を支えると言っていましたが、現在では3人~2人で1人を支えるとなっています。

決して消費税を上げるのは間違っていると言っているわけではありません。消費税のアップを将来の社会福祉のためというならば、基金として増収分を積み立てなければならないと言っているのであって、行政マンとして目的税は目的のために使うからいいのだと安直に考えてはいけないという気がしました。

 

5) 病院            ・・・医療情報室

病院では電算処理を担当しました。インターネット時代の始まりで、大型コンピュータから、その後、スマホとか手元のタブレットの時代になることになります。

この時には、コンピュータと医療機器とコンピュータの接続に苦労し、いろいろなテストをやりました。今、電子カルテと言って、レントゲン、MRI、CTの画像は医師の手元に情報がきます。ある決められた規格によってはコンピュータに取り込むのですが、事務職として知識が必要でしたので、新しい知識をつけるのに苦労しました。

 

6) 公営住宅管理      ・・・滞納整理、・特別会計の設置

その後、県庁に入って通算で12年間携わることになった公営住宅の管理をしました。公営住宅というのは低所得者に住宅を提供する仕事です。当時、滞納が増加の一途で滞納整理の強化を求められ、即決和解を100件以上、訴訟を40件以上、弁護士をつけないで訴訟もしたこともあります。

公営住宅の時、包括外部監査が入りました。これは、民間の公認会計士を入れて、内部の監査だけでなく、民間も入れた監査をやるというもので、非常に厳しい監査を受けたのですが、その方が、公営住宅は県とか市にとって黒字になる事業だと言った一言に衝撃を受けました。県や市がやる事業に黒字になるものがあるのかと思って調べてみたら、国からの国庫補助を入れると黒字になるのです。

公務員は経営に疎いので、各事業でどのように収支のバランスが取れているのかということを考えない職員が多いです。それはなぜか、公務員は、借金を歳入として数えるからです。私は公営住宅課では事業を経営の目でどう見ることができるかということを学びました。

この中で経営学、簿記を取っている方はいますか?経済学科の方はどれだけいますか?(会場から挙手を求める。)

簿記は大学1年生の時は取らないんですね。複式簿記、バランスシート(貸借対照表)、損益計算書を通して、儲けとはなにかを合理的に分析できる、記帳するものが複式簿記です。公務員の世界は単式簿記なので、その業務が資産がどれだけあってどのように収入があってどのように支出して、黒字か?経営的にどうか?と分析することは苦手ですが、それをやることによって経営的にどうかという新しい見方をすることができます。

現在、国でも県でもホームページで財務諸表を公開していますが、利益を追求しない行政は経営学的な分析はあまりできないのではないかと思っています。

県庁には、あまり直接、県民と接する部署が少ないので、公営住宅の管理では、様々な経験をすることができました。

家賃を滞納して住んでいる人を追い出すにはどういう手段がありますか?法律学科の方はいますか?


投稿者 : 事務局 投稿日時: 2017-11-10 12:28:54 (21 ヒット)

平成28年度 静岡大学岳陵会 連携講座 第11回

 

日  時  20161219日(月) 1430分~1555

会  場  静岡大学 人文社会科学部 大講義室

参加人数  180

講  師  浅倉 三男 様     塩水港精糖株式会社 前社長

        文理学部 第16回 法学科 1968年(昭和433月)卒

 

演  題  「 指導者らとの出会いと私の社長キヤリア形成

         ~ あなたは、二度とない人生をどう生きますか? ~ 」

 

 

 講座の開始に当たり、連携講座担当の人文社会科学部法学科教授 国京則幸先生より次の3つのお話しがありました。

 1つには、本講座レポート提出についての諸注意

 2つには、「講義レジュメ」の全学生への配布

 3つには、講師のご紹介

 

 そこで、講師登場

 

 皆さん、こんにちは。私は、ただ今、ご紹介にあずかりました、皆様の先輩に当たる「浅倉 三男」と申します。

 本日の演題は、「指導者らとの出会いと私の社長キヤリア形成 ~ あなたは、二度とない人生をどう生きますか? ~」です。

 

 ところで、本論に入る前に、次の3点をお話します。

   私は、東証1部上場の塩水港精糖株式会社の社長を9年間勤めました。塩水港精糖は、精製糖・バイオ製品などを生産している会社で、全国のスーパー等で販売されている商品「オリゴのおかげ」を製造している会社です。

塩水港精糖は、1904年(明治37年)に台湾の内陸部にある「塩水港」で設立された製糖会社です。会社の商号は発祥の地「塩水港」に由来しています。台湾でいう「港」とは、日本語でいう船舶が安全に碇泊できる所という意味ではなく、川が分岐するゾーンを意味します。ですから、台湾の内陸部に「塩水港」の地名があっても不思議ではありません。このことを教えてくださったのは、日本と台湾の文化交流協会会長であり、元最高裁判事、現在は弁護士の園部逸夫先生です。天皇の生前退位について識見を述べられている方でもあります。

   私は沼津市で育ちました。駿河の国に秀でたるもの2つあり、1つは富士の山、もう1つは沼津市原の禅僧「白隠禅師」です。この白隠禅師は、朝起きると、手で耳をつまんで引っ張り、足をもんでいたそうです。これで目を覚ますのです。眠けを覚ますには、耳を引っ張るといいようです。

では、白隠禅師のまねをしてみましょうか。皆さん、手で左右の耳を引っ張ってみてください。眠けを覚まして、私の話を聞いてくだされば幸いです。

   本日、新幹線の中で日本経済新聞を読んでいましたら、こんな記事がありました。(記事の切り抜きを掲げながら)、世界的に有名な某会社の代表取締役社長が「大学で勉強をしない学生は、社会に出ても役立たない。」と言っているんですよ。これはおかしい。

この記事の内容に反する話が、正に、本日のこれからの私の話となります。私は勉強しないダメ学生でした。しかし、私は就職して社長に推挙された。社長になるために社会人となってから必死で知識を習得し人間力を磨き続けた。今考えると、学生時代に勉強をしなかったことと将来の生き方に真摯に向き合わなかったことが、何百倍もの苦労となって跳ね返ってきたが、私はこれに負けなかった。人生には、誰でも失敗や挫折はあるけれど、それで終わりでない、復活の道もあるのです。皆さんには、「二度とない人生をどう生きるか?」というテーマに真摯に向き合い、有意義な学生生活を送り、私のようなダメ学生にならないで欲しい。

 

 では、本日配布した「講義レジュメ」に従い、お話しを進めたいと思います。

 

1 自己紹介

①1944年(昭和19年)生まれ、現在、72歳

②1968年(昭和43年)静岡大学 文理学部 法学科卒

静岡県内には優良企業が多いので、地元の静岡大学に入学しておけば就職は困らないだろうとの安易な考えで、静岡大学文理学部法学科に入学。学生時代は勉強をせず、人生をどう生きるか真剣に考えずに過ごした。河中二講教授の行政学ゼミで席だけ温めていた学生でした。

  1968年(昭和43年)大洋漁業株式会社(現在 マルハニチロ(株))入社

当時、日本は高度経済成長の真っ只中で、就職は簡単に見つかるだろうと楽観し、殆ど就職活動はしませんでした。大学4年生に進級したとき、心配した河中二講教授のご紹介により、当時、食品会社では日本のトップクラスの企業規模の大洋漁業(株)の入社試験を受け、合格できました。河中指導教官へのご恩は生涯忘れません。大洋漁業(株)には、静大の先輩が3人いましたが、社員何千人の中での静大出身者の存在感はありませんでした。

大洋漁業(株)の入社式で私は、中部謙吉社長の指名により、新入社員の前で、社訓「1つ、企業は何よりも人にある。1つ、・・・・」を読まされました。後に塩水港精糖(株)社長になった私は、この社訓を執務室に掲げて経営理念の柱としました。

④46歳のとき、大洋漁業(株)の子会社の塩水港精糖(株)に転籍。その後、部長、取締役、常務、専務、副社長を経て、60歳で、東証1部上場会社「塩水港精糖株式会社」社長に就任。その9年後の2014年(平成26年)5月、69歳で社長を退任しました。

 

2 私の経歴とキャリア形成

それでは、これから社会を動かす皆さんが、二度とない人生と真剣に立ち向かい、キャリア形成に役立てていただきたいとの思いで、皆さんに参考になる体験談の話をしたいと思います。私が皆さんに伝えたい話の内容を要約すると、次の2つです。

  私は、経営者としての「実力」をつけたこと。

  私は、出会った指導者らから学んだ教訓等を活かして、人間が成長していく過程で形成される「人間力」を磨いたこと。

 

さて、東証1部上場企業の社長がサラリーマンの頂点だ、と言う人がいますが、その意味では、私は幸せ者です。しかし、私は、人を押しのけて社長になろうと思ったことは一度もありません。出会った指導者や仲間から受けた教訓等を活かして、自己研鑽を積み重ねることにより人間力を磨き、その結果、企業経営者に選出されたと思っています。

ところで、皆さんは、社会に出てから二度とない人生をどのように生きますか?仕事を持つことは幸せなことです。でき得れば、自分の志や目標とする職業に就き、自分が満足する仕事に従事できれば、言うことはありません。しかし、現実に立つと、まず職業や就職先を絞り、入社試験に合格しなければなりません。そのためには、学生時代に基礎知識や専門知識を勉強し、将来の自分への投資をすることです。また、課外訓練をすることにより、失敗を含め様々な経験・体験を通じて、対人関係処理能力、忍耐力、思いやり等を体得することによって「人間力」を高める土台を作ることです。さらに、自分の資質、能力、適性、長所、短所などを自己分析し、これに、教官や親や友人などの他己分析を加味し己を知り、自分の目指す職業や就職先を決めるとよいでしょう。「連携講座」を通じて、変容する現実社会の実態を知り、将来を展望することは、皆さんが進路を決める際に大いに役立つものです。しかし、「連携講座」を活用するもしないも、皆さん次第です。私は、皆さんが自分の人生を成功させて欲しいと願うものです。

今の日本は、経済のグローバル化や情報技術が進む中、デフレ、人口減少、財政赤字、格差社会、地方衰退など構造変化に直面し、その対応に苦慮しています。だからこそ、かつてない変化に対応し、難局を克服していくためには、様々な業種や分野で「人間力」を持った人材が求められているのです。

そこで、私の社長キャリア形成の原動力となった体験談を年代順に、実力をつける為に「努力」したことや、自立した人間として力強く生きていく為の総合的な力としての「人間力」を磨き、キャリア形成を蓄積してきた体験談を紹介していきたい。

私の体験談を聞いて、皆さんは疑似体験され、今後の自分のキャリア形成に役立てて頂きたいと思います。

 

(1)20歳(静岡大学2年生)→ 大人であることを無言の教えから学ぶ。

1966年(昭和41年)、文部省(現 文部科学省)所管の中央教育審議会(会長:森戸辰男氏)による「後期中等教育の拡充整備について」の答申と併せて「期待される人間像」が答申されました。「期待される人間像」では、青年に愛国心や遵法精神を育成することが強調されました。義務教育に戦前の「修身」に類する「道徳」教育の導入が必要でないかということもありました。

この答申のあった前年(1965年)、「期待される人間像」の聴聞会があり、全国から20歳の男女100人から意見を聞くことになりました。私は、そのうちの一人の委員として、当時の渡辺寧靜岡大学学長(故人 器の大きい電子工学者兼教育者)の推薦を受け、出席しました。しかし、渡辺学長は、学長と学生との上下関係に基づく指示を私に何も出さなかった。

このとき、私を大人として扱い、私の自由意思を尊重する学長の姿勢に接し、私は大人であることを初めて自覚した。学生といえども社会の構成員として責任のある言動をとらなければならない、と言うことを私は無言の教えから学んだのです。

 

(2)23~32歳(大洋漁業(株)大阪支社)→ 人は努力する人間を見ている。

入社してすぐの23歳(1968年)のとき、大阪の有力なハム・ソーセージの代理店(従業員50人)が倒産し、私はその倒産処理を担当させられた。回収すべき債権金額は大きく、また担保物件も多く難しい仕事だった。靜岡大学で聞きかじった法律知識は実務に全く役立たない。そこで、私は、民法、商法、破産法、民事訴訟法、不動産登記法、担保(抵当権、質権、譲渡担保)、税法などを必死に勉強した。また、日曜日には、大阪の私立大学に通うなど、法律の猛勉強をした。また、会社の法律顧問であった阿部甚吉弁護士(1969年日弁連会長就任。思いやりがある苦労人)とその門下生からも徹底的に法律実務の指導を受けた。当時、法曹界では珍しい即決和解調書に基づく「建物明け渡しの断行仮処分」、譲渡担保契約に基づく「食用鶏の執行官保管の仮処分」、「債権譲渡」、「不動産競売」などの実務を経験したのです。

このように私が法律実務の仕事に苦労し努力をしている姿を見ていたからでしょう。1977年(昭和52年)、私が大洋漁業㈱大阪支社から東京本社へ転勤する際に、阿部甚吉先生が大阪・北新地の高級料亭で、私の送別会を開いてくださいました。このとき、阿部先生曰く、「浅倉君、君は大洋漁業で働いているのだから、将来、瀬戸内海でクジラを養殖するなんて、ちっぽけな考えをするなよ。太平洋でクジラを増やすんだよ。」と。私は、この言葉は、「浅倉はスケールの大きな人間になりなさいよ。」という励ましのメッセージと受け止めました。そして、阿部先生の期待に応えなければならないと決意したのです。この決意が、その後、私が力強く人生を駆け抜ける原動力の1つになりました。

大坂で倒産処理の仕事をしていた頃、知人から「ビル2階に開設する麻雀荘の許可がおりないで困っている。協力してほしい。」と頼まれました。麻雀荘を開設するには「風俗営業法」に基づき大阪府公安委員会の事前許可が必要。ビル2階の麻雀荘の出入口は、「消防署は2カ所つくれ、他方、「警察署」は1カ所にせよ、という行政の対立で、なかなか許可が下りなかった。結局、緊急時には出入口を2カ所に応用できる扉を設置することで許可を取得した。このとき、世の中のモノの見方は1つだけでないことを実感した。

皆さんも、重要な決断をする時は、一方の側面だけからモノを見ることなく、異なる側面からも見て欲しい。複合的・総合的に判断することが大切だと思います。

 

(3)29歳(大洋漁業(株)大阪支社)→ 話し方と気配りの大切さを学ぶ。

1973年(昭和48年)、私が食品労連大阪地区議長であった頃、同志社大学講師を辞めて衆議院議員となっていた土井たか子氏(故人。気配りができ信用できる憲法学者、元社会党党首、元衆議院議長)が会社に私を訪ねてこられ、一緒に食事をする機会がありました。土井氏は、私の顔を見つめながら私の話が終わるまでしゃべらず、じっーと話を聴く。私が話し終えると、初めて口を開く。さらに、私の質問に対する答えは的確。実に感動的でした。このとき私は、「話し方の基本」を土井氏から学びました。

その後、1994年(平成6年)、既に塩水港精糖(株)に転籍していた私は、国会衆議院事務局副部長であった近藤誠治君(総合職試験合格者。静大同期生。その後、衆議院事務局議事部長に昇進)を国会に訪ね、昔お会いした衆議院議長・土井たか子氏に、塩水港精糖商品「オリゴのおかげ」を渡してほしいと依頼した。その後すぐに、土井衆議院議長から直接、お礼の電話をいただき私はびっくり。その土井衆議院議長の話し方に加え、その気配りの凄さにも感服。土井たか子氏から大切な処世訓を学びました。

皆さんは、これから面接を経験するでしょう。人の話に最後まで耳を傾け、しっかり聴いて、それから、受け答えをするよう心掛けるとよいでしょう。人間に重みが出てきますよ。

 

(4)36歳(大洋漁業(株)本社 文書課課長代理)→ 実力は他人が評価する。

ある日、人事部から私に「法律系大学卒業見込み者の入社試験問題を作成し、採点せよ。」との業務命令が下る。文書課やその周辺には、東大・中央大・早稲田大・東北大・上智大などの法学部卒業生で優秀な法律系社員が多数いたのに、何故、私が?と思いました。しかし、何故、私に仕事が回ってきたのか、解りました。実力は他人が評価するのだ、と解ったのです。

皆さんも、他人に評価されるよう努力し、実力をつけてください。

 

(5)41歳(大洋漁業(株)本社 総務部総務課長)→ 友達は個人や国家にとっても大事。

1986年(昭和61年)6月のあるパーティでのこと。老齢の岸信介元首相が私に話しかけてこられました。

岸元首相:「君、なぜ、僕が1960年に新安保条約を締結したか、理由がわかるか?」

浅倉(直立不動):「解りません。」

岸元首相:「その理由は、当時日本には米国しか友だちがいなかった。だから、日本は友だちの米国と仲良くやっていく必要があり、新安保を締結したんだよ。」

このとき、私は、個人にも国家にも「友だち」が必要で大切なんだと、考えさせられました。持つべきは「良友」かと。

ところで、2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災で、横須賀基地から米軍が「トモダチ作戦」の名で救援活動を展開しました。この「トモダチ」と言う言葉を使った作戦には、岸元首相は天国で苦笑いしていたことでしょう。

なお、岸信介首相には特筆すべきことがあります。国民年金法や最低賃金法を制定し、また国民皆保険の道を拓くなど社会保障制度を導入したことです。

 

(6)42歳(大洋漁業 (株)本社 総務部総務課長)→ 色紙の書「無為」に学ぶ。

中曽根康弘首相は、私達の先輩で、哲学と歴史を重んじた政治家です。同首相は、静岡大学文理学部の前身である旧制静岡高校の出身で、旧制高校時代、「仰秀寮」に寄宿されておられました。私も「仰秀寮」


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